【レキシズル流 幕末のいろは①】短いけど濃い!16年間を理解する方法
【レキシズル流 幕末のいろは③】「考え」を知り、人物に当てはめてみる
さて、今まで3つの「思想」と2つの「考え」を組み合わせて、幕末の人物を浮き彫りにする方法を紹介した。前回、「倒幕」の人物として高杉晋作を考えてみたが、今回はそのカウンター、「佐幕」のある人物にフォーカスする。
「まつだいらかたもり」と読む。イケメンである。
この会津藩、元々のはじまりは江戸時代初期、徳川家康の孫が治めた。もうわかりやすく「ド」が付く「佐幕」である。さらに幕末まで200年以上、会津藩で守られてきた家訓を紹介する。
難しくて長いので、思いっきり略す
これをやらかす藩主がいたとしたら、家臣も民も全員で見捨てろという激烈な教えを家康の孫は残した。それを継承した松平容保という人物は、痛々しいほどにこの教えを守り、幕末という激流に身を委ねることになる。
さて、では容保の思想は「佐幕」で決まりだが、考えはどうだったのであろう。もちろんペリーくんが来やがり、彼も最初は「攘夷」からスタートしたはず。だが容保はただのイケメンだけの男ではなかった。早くから外国の進んだ文明の威力を理解し、江戸幕府に国を開くべきだと意見していた。
ということでー
ところで、幕末の思想活動の拠点といえば京都だった。いまでこそ世界に誇る観光地になって平和だが、幕末当時は違う。様々な輩が「尊王攘夷」を叫び、盗み、殺しなどとても治安が荒れていた。イスラム国のようだ。観光どころではない。
さながらコピーはー
これに手を焼いた幕府は、治安維持のために「京都守護職」という役職を創り、容保に白羽の矢を立てる。これほどおいしくない仕事はない。なぜなら「尊王攘夷」を正義と信じる浪士たちを取り締まるということは、恨みを買うからだ。しかも会津藩のメリットなどなく、財政も苦しくなる。正に火中の栗を拾うに等しい。
しかも、この浪士たちの中核はー
血で血を争う京都が激化する。そして会津藩がスポンサードした「新選組」が登場。浪士はバッタバッタと斬り捨てられた。恨みは恨みを呼び、幕末究極の構図「倒幕」vs「佐幕」のコントラストは明確になる。
その後紆余曲折を経て、大きな戦“戊辰(ぼしん)戦争”に発展。会津藩は目の敵にされ、その城下まで攻め込まれ敗れることになる。
容保は最後まで戦を避けようとした。なんとか会津にも「義」があることを訴え続けた。しかし幕末の業火はそれを許さなかった。
この容保ほど、「佐幕」という思想を守り抜こうとした者はいなかったのではなかろうか。歴史は勝者が創る。これに異存はない。しかし、日本人に響く「滅びの美学」というものがある。容保を知ると、切なくてやるせない想いに気づく。というのも幕末には様々な角度やファクターがあり、景色がガラリと変わるからだ。少しずつ、それを知ってほしいと思っている。
最後に、容保と幕末会津藩を表現して筆を置く。
【プロフィール】
渡部麗(わたなべりょう)
歴史クリエイター。
東京・御茶ノ水で歴史コミュニケーションメディア「レキシズル」を主宰。所有しているショットバーの水曜日を「レキシズルバー」として開放。歴史好きの交流を活性化しながら、畳敷きのイベントスペース「レキシズルスペース」で歴史をポップにわかりやすくプレゼンする「TERAKOYA」などを開催。
「レキシズル」オフィシャルサイト
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