歴人マガジン

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【 すべては家康のために 】 三河武士の鑑!伏見城と共に散った鳥居元忠

【 すべては家康のために 】 三河武士の鑑!伏見城と共に散った鳥居元忠

いつの時代でも、忠義に生きた士に弱いのは人の常です。
天下分け目の関ヶ原の戦いの前に、伏見城を枕に散った武将がいたのをご存知でしょうか。
徳川家康の家臣、鳥居元忠です。家康が幼少の頃からずっと付き従ってきた、譜代中の譜代でした。
彼の一世一代の壮絶な散り様をご紹介しましょう。

命を捨てる覚悟で伏見城に残った鳥居元忠

鳥居元忠

鳥居元忠

豊臣秀吉の死後、実権を握った家康は、上洛命令を無視する会津の上杉景勝を征伐することに決めます。
しかし、畿内の拠点である伏見城にも守備隊を残しておかなければなりませんでした。

そこで家康が白羽の矢を立てたのが、重臣の元忠だったのです。
江戸幕府公式記録「徳川実紀」には、家康と元忠が交わした会話について記されています。

主力を会津に向かわせるため、兵を残していけないことを詫びた家康に、元忠は答えます。
「天下分け目の大事で、命を惜しむ時ではありません。我々が命を捨てることを痛ましく思ってはなりませんぞ。我々ごときが命を捨てること、何でもないのです」
2人は酒を酌み交わしながら思い出を語り合いました。そして、これが今生の別れとなったのです。

勃発!伏見城の戦い

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家康が会津征伐へ向かうと、待ってましたとばかりに石田三成が動き出します。
降伏を勧告する使者を伏見城の元忠へ派遣しますが、元忠は初めから玉砕覚悟でしたので応じるはずもありませんでした。実は島津義弘が協力を申し出たのですが、連絡の行き違いにより入城拒否されてしまうという事態が起きていました。

伏見城に籠もる元忠ら守備隊は1800、対する西軍は総大将に宇喜多秀家を擁する4万もの大軍でした。
誰もが短期の決着を予想しました。

しかし、ここから元忠軍の奮戦が始まるのです。
家康が残した鉄砲200丁での銃撃戦は苛烈を極め、死兵と化した元忠たちの戦意は、決して一枚岩ではない西軍の勢いを上回っていました。
結果として伏見城は13日間も持ちこたえ、家康が会津征伐に向かい引き返してくるまでの時間を稼ぐことができたのです。

落城、元忠死す

「元忠の遺品:鉄錆地椎実形兜」

「元忠の遺品:鉄錆地椎実形兜」

なかなか落ちない伏見城に苦戦した西軍では、長束正家が一計を案じました。伏見城内に籠もる甲賀衆の妻子を捕え、甲賀衆に対して内通を強要したのです。家族をはりつけにすると脅された彼らは、城内に火を放ちました。
これによって元忠軍はついに力尽きることとなったのです。

城内に敵がなだれ込み、元忠軍はほぼ壊滅しました。
そこで、部下は元忠に自刃を勧めます。「鳥居家中興譜」によると、元忠は「私は名を残すためではなく、敵を食い止めて時間を稼ぐために戦っているのだから、雑兵の手にかかっても構わぬ。(中略)1人になっても敵を殺して忠義を全うせよ。命ある限り斬り死にするのだ」と答えたと言われています。

そんな元忠の前に現れたのが、敵将で雑賀衆の頭領・鈴木重朝でした。
彼らは一騎打ちをしたとも、重朝の勧めに応じた元忠が自害し首を取られたとも伝わっています。

そして、元忠ら守備隊の命と共に伏見城は燃え尽きたのでした・・・。

「源光庵に残る血天井」

「源光庵に残る血天井」

城を枕に討死した元忠ら守備隊は、「三河武士の鑑」と称されました。
家康は、彼らの血に染まった伏見城の畳を江戸城伏見櫓の階上に置き、登城する人々に見せて元忠の忠義を偲んだといいます。

また、血染めの床板は京都の養源院や源光庵などの寺の天井に移築され、血天井として今も現存しています。京都を訪れる際には、壮絶な彼らの戦いの痕跡を見に行ってみてはいかがでしょうか。

家康の家臣には、こうした忠義の「三河武士」が数多く見られます。
大名ではないので陰に隠れがちですが、その働きは素晴らしいとしか言いようがありません。ぜひ、家康の譜代の家臣団にも注目してみて下さい!

(xiao)

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