島津四兄弟の中で最もアクの強い人物が、三男・歳久だと思います。
長兄・義久は内政、次兄・義弘と弟・家久は武勇に恵まれた中、歳久の特徴は「ちょっと変わっている」ところでした。
しかし、彼こそ最も魅力ある人物だと筆者は思います。そんな歳久についてご紹介します!
絶体絶命の兄2人を救う!
歳久最大の武功と言えば、敵対していた菱刈氏などと戦った大口堂崎の戦いです。ここで兄の義久・義弘は絶体絶命の窮地に陥り、死を覚悟したとも言われています。
そこに駆けつけたのが歳久でした。少ない手勢で敵を蹴散らし、見事に兄たちを救い出したそうです。歳久の武勇も非凡だったことの証明です。
家(というかむしろ兄)に害が及ぶなら自分の命を差し出そうという姿勢を知ると、歳久が本当に兄たちを尊敬し大切に思っていたことが感じられます。
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考え方が個性的だった歳久
祖父・日新斎が評するに、歳久は「始終の利害を察するの智計並びなく」ということです。瞬時に敵味方の利害を察することができ、頭の回転が良い人物だったということではないでしょうか。
豊臣秀吉が九州征伐を開始すると、秀吉の身分の低さを理由に臣従を拒む兄たちに対し、歳久はひとり「農民から身を興したのだから只者ではない」と和平を唱えます。が、あえなく却下されてしまいました。
しかし戦況が不利になると、家内は和睦へ傾きます。ところが歳久は「和睦するべきでない」と徹底抗戦を主張し出しました。これこそ「始終の利害を察するの智計」に当たるように思えるのですが、いかがでしょう。
結局島津家は降伏しますが、歳久は秀吉への敵意を押さえきれませんでした。そして秀吉の行列に向かって矢を射かけさせたのです。駕籠は空だったので秀吉は無傷でしたが、歳久への心証は最悪なものとなりました。
家(と兄)のために自害
中風を患っていた歳久は朝鮮出兵に参加しませんでした。しかしこれが秀吉の不興を買います。
加えて島津家家臣が秀吉支配に対する反乱を起こし、そこに歳久の家臣も多数参加してしまったのです。
こうなっては秀吉の怒りは頂点に達します。長兄・義久に下された命は、歳久を討つことでした。
そして兄に追われた歳久は、さしたる抵抗もなく自害を選んだのでした。
義久へ残した手紙は、「病のために出兵できなかっただけでやましいところはありませんが、謀反を疑われるなら島津家のためにも切腹しましょう。また、兄上にも弓引こうというわけではないのです」という内容だったそうです。
27人の家臣が歳久に殉死しました。義久による追っ手の者も武器を捨て、地に伏して大声で泣いたということです。秀吉に対して強硬派だった彼を慕う者は大勢いたのです。
歳久は対秀吉の意見で兄とは対立しましたが、結局は兄を尊敬し助けたいと思っていたのでしょう。だから、自分がいることで兄に迷惑がかかるのなら腹も切ろうという思いになったのではないでしょうか。
ちなみに、中風になったのは、下戸の義久に代わり酒宴の盃を受けていたからという説もあるそうです。どこまで兄思い・・・。
島津家の武士が死して安産の神に?
中風のため手がよく動かなかった歳久はなかなか自死できず、傍にあった石で試みるも上手くいかずに苦しみました。
その時に「女のお産もこんなに苦しいのか」と案じながら亡くなったそうです。
以後、歳久は安産の神として祀られるようになりました。島津家の武士が安産の神とは異色ですね。
領地をよく治めた歳久は、家臣や領民に慕われました。今でも彼を慕う地元の人が多く、慕われ度では四兄弟で一番かもしれません。
波が激しくアクが強いタイプだったのでしょうが、それこそが彼の魅力だと思います。
(xiao)
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