歴人マガジン

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【 日本人なら読みたい 】新渡戸稲造「武士道」にみる日本人のこころ

【 日本人なら読みたい 】新渡戸稲造「武士道」にみる日本人のこころ

この五千円の肖像画、誰だかお分かりでしょうか? マギー司郎ではありません。
新渡戸稲造という日本の教育者・農学博士・思想家です。
幕末から昭和の日本に生き、「武士道=Bushido The Soul of Japan」という本を書いた著者としてご存知の方も多いのではないでしょうか。
しかし彼のキャリアを見ると「武士道」とはちょっと違和感を感じる人も多いのでは?
今日はそんな彼の一生を改めて振り返ってみたいと思います。

「超ニュータイプ」新渡戸稲造の一生

幕末の文久2(1862)年、岩手県盛岡市に生まれた新渡戸は、祖父が江戸で材木商として成功した裕福な家柄で、家には西洋の文物があったことから英語に興味を持つようになります。

明治維新後の明治4(1871)年わずか9歳のとき叔父を頼って上京、13歳のときには東京英語学校(現東大)で英語を学んだのち「少年よ大志を抱け」のクラーク先生で有名な札幌農学校に入学し、農学を学ぶとともにクリスチャンとして入信。
 
明治17(1884)年22歳のころにはアメリカの大学へ進学するも、3年後にはドイツへ官費で留学。明治24(1891)年29歳のときにアメリカ人メアリーと結婚し、研究にいそしむ毎日を送りますが、多忙のあまり精神を病んでしまい、アメリカで療養していた明治33(1900)年に「武士道」を英語で執筆。

メアリー夫人と。

メアリー夫人と。

江戸時代はご法度であったクリスチャンであるというところや、アメリカやドイツに留学できる語学力も含め「超ニュータイプ」のエリートだったのですね。
激動する世界の状況と優秀すぎる頭脳のあまり精神を病んでしまいながらも、療養中に英語で本を書いてしまうあたり、ちょっと突き抜けた天才肌の人だったのでしょう。

札幌農学校時代の仲間と共に(1928年)

札幌農学校時代の仲間と共に(右端が新渡戸 1928年)

重い心の病から立ち直った新渡戸は、その後第一高等学校、京都帝国大学、東京帝国大学総長などを歴任し、1920(大正9)年には、第一次大戦後に発足した国際連盟の事務局次長に就任。
国際人として平和への道を模索するも、1933(昭和8)年、日本が国際連盟を脱退し、第二次世界大戦への道を開いたその年にカナダで倒れ、その一生を終えました。

この新渡戸の生涯について、かなり細かいところを省いて略歴を書きましたが、これだけでも凄すぎる経歴。
その優秀な頭脳をもとに、近代農業の研究者として多大な貢献をしながら、その優れた国際感覚で、戦争へとひた走る近代日本の姿に警鐘を鳴らし続けた一生でした。

著書「武士道」について

Bushido: The Soul of Japan

Bushido: The Soul of Japan

武士道=Bushido The Soul of Japan」は、明治33(1900)年、アメリカにて刊行されたのち、イタリアやドイツ、ポーランドやノルウェーからロシアにいたるまで、多くの国の言語で翻訳され大ベストセラーになった新渡戸の著書。
現代ではわかりやすくマンガなどにもなり、未だに彼の主張が注目されていることが分かります。

まんがでわかる 新渡戸稲造「武士道」 (Business ComicSeries)  出展:amazon.co.jp

まんがでわかる 新渡戸稲造「武士道」出典:amazon.co.jp

そもそも本書は、新渡戸のドイツ留学中にベルギーの法学者から「宗教教育がない日本はどのようにして子孫に道徳を教えるのか?」と問われた経験に愕然としたのがきっかけだったとか。

それまで武士=侍の国として知られていた日本が、近代国家として歩みだしたなか、すでにキリスト教など宗教による道徳心が確立されていた欧米での経験を踏まえ、新渡戸の考えを整理した集大成が「武士道」だったのです。

武士道とは騎士道精神と高貴な身分に付随する義務であり、長い年月をかけて一つの道徳となっていったものである」というのがこの本の主旨です。
新渡戸は武士が重んじた価値として「義」「勇」「仁」「礼」「誠」「名誉」「忠義」という7つの要素が、近代日本人の道徳観として残されていると述べています。

その中でも最も大事なのは「義と勇」で「流されずに正義を守る勇気を持つ者こそが真の武士」であり、また武士にとって究極の理想は「最善の勝利は血を流さずに得た勝利である」と彼は主張します。

彼の武士道精神は、日清、日露戦争、第一次世界大戦を経ながらも、さらに戦争への道を進む日本のなかで唱え続けた「非戦」の生き方へと繋がります。
日本人の精神性を司ってきた武士道。しかしそこから導かれた非戦という彼の主張は、軍国主義化が加速する当時の日本において、残念ながら進化しすぎたものだったようです。

1932(昭和7)年、軍部への警鐘を鳴らしたため、軍部やメディアから徹底的に非難され、多くの友人を失っただけでなく、当時満州国を支配していた日本の立場から、第二の母国アメリカでも避難され、失意の晩年を送ったといいます。

幼少のころから恵まれた環境と頭脳をもち「太平洋の架け橋とならん」と高い志をもって活躍した彼の死後、日本はアメリカとの戦争に突入していきました。

彼のしてきたことは無駄だったのでしょうか。私は否だと思います。
彼がこの本を通じて多くの欧米人たちを感銘させた、日本人の精神性は今も生きているはずだと思うからです。

現在も中東はじめ世界中で絶えることのない争いが続き、日本を含めたアジアもその危機感のなかにあります。

そんな状況のなか、私たちは改めて彼が言わんとしていたことを、学び直してみる必要があるのではないかと感じています。

参照元:
新渡戸記念館
新渡戸文化学園

編集長Y

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