![【織田信長の愛した刀】すご過ぎる刀剣コレクションが見たい!](https://rekijin.com/wp-content/uploads/2018/11/odanobunaga-katana00.jpg)
日本特有の文化の一つである日本刀は、今でも人々の心を魅了し続けています。ここ数年は、刀剣を擬人化したゲーム『刀剣乱舞』が人気となり、若い世代や女性からも注目されていますよね。そんな日本刀に心を奪われたのは昔の武将も同じだったようです。かの有名な戦国武将である織田信長もその一人で、かなりの名刀を収集していました。そこで今回は、信長がどのような名刀を所持していたのか、刀に関する逸話や、家臣に贈られた刀についてもご紹介します。
織田信長は刀を愛する武将だった
![織田信長像](/wp-content/uploads/2018/11/odanobunaga-katana01.jpg)
信長は無類の刀好きだったため、彼の元には名刀が数多く集まってきました。戦利品として得たものから献上されたものまでさまざまですが、そのコレクションの中にはどのようなものがあるのでしょうか。
信長の刀コレクション
信長が所持していたとされる刀の一部には、以下のようなものがあります。ここに挙げた13振り以外にも、多くの刀を所持していたそうなので、かなりの刀剣コレクターといえますね。
【太刀】
- 津田遠江長光(つだとおとうみながみつ)
- 鉋切長光(かんなぎりながみつ)
- 大般若長光(だいはんにゃながみつ)
- 長篠一文字(ながしのいちもんじ)
- 岡田切(おかだぎり)
- 不動国行(ふどうくにゆき)
- 鶴丸国永(つるまるくになが)
- 鬼丸国綱(おにまるくにつな)
【打刀】
- 実休光忠(じっきゅうみつただ)
- 圧切長谷部(へしきりはせべ)※大太刀から刀に改められました
- 宗三左文字/義元左文字(そうざさもんじ/よしもとさもんじ)
【短刀】
- 薬研藤四郎(やげんとうしろう)
- 不動行光(ふどうゆきみつ)
特に備前長船がお気に入り
![備前おさふね刀剣の里](/wp-content/uploads/2018/11/odanobunaga-katana02.jpg)
信長が特に気に入っていたのは備前長船(現在の岡山県)の刀工・光忠が作った刀で、30振り近くも収集していました。その作風は小沸づいた小乱れから、華やかな乱れ刃を持った豪壮なものまで幅広く、切れ味も抜群だったといわれています。また、豪華な刃取りが人気を博していたそうです。信長が備前長船派を好んだのは、大きく華やかな刃文(はもん)が彼の趣味に合っていたからかもしれません。
愛刀!圧切長谷部(へしきりはせべ)
信長の愛刀には有名なものが多く、その中でもよく知られているのが「圧切長谷部」です。
圧切長谷部の概要
![黒田官兵衛](/wp-content/uploads/2018/11/odanobunaga-katana03.jpg)
圧切長谷部は長谷部国重によって作られた刀で、刀身幅が広く厚さは薄い重ねになっており、浅い反りや大切先は南北朝時代の典型的な刀の特徴を示しています。江戸時代に編さんされた『享保名物帳』では長谷部派を代表する傑作として唯一掲載された作品です。
来歴にはいろいろな説があり、信長から豊臣秀吉に贈られた後に黒田長政の手に渡ったとされる説、黒田官兵衛が信長に面会した際に中国攻めの策を提言した褒美として与えられたとする説、また信長から官兵衛に直接下賜されたという説もあり、真実は定かではありません。しかし、黒田家の家宝として継承されてきたことは確かなようです。
圧切長谷部の恐ろしい逸話
圧切長谷部の名前が付けられた由来として、ある逸話が残されています。
ある時、観内(かんない)という茶坊主が失敗を犯しました。信長は手打ちにしようと追い掛けましたが、観内は台所の棚の下に隠れてしまいます。棚が邪魔をして刀を振り上げて切ることができなかった信長が、仕方なく棚の下に刀を差し入れると、大した力も必要とせずに観内を胴体ごと圧(へ)し切ってしまったのです。それほど恐ろしい切れ味ということで、圧切長谷部の名前がつきました。
国宝から御物まで!信長の刀はすごかった
信長の所有する刀は名刀ぞろいでした。そのコレクションがどれほどのものだったのか、詳しく見ていきましょう。
国宝と重要文化財の刀たち
信長の刀には国宝や重要文化財に指定されているものも多くあります。ここではその一部を、現在の所蔵先と共にご紹介します。
【国宝】
- 圧切長谷部(福岡市博物館)
- 長篠一文字(個人蔵)
- 津田遠江長光(徳川美術館)
- 岡田切(東京国立博物館)
- 大般若長光(東京国立博物館)
【重要文化財】
- 宗三左文字(建勲神社)
【重要美術品】
- 鉋切長光(徳川ミュージアム)
【名物】
- 籠手切正宗(東京国立博物館)
【御物】※宮内庁管理
- 鶴丸国永(山里御文庫御剣庫)
- 鬼丸国綱(山里御文庫御剣庫)
御物(皇室私有品)や個人蔵の刀は見ることができませんが、博物館所蔵のものは現在でも展示品として拝観可能です。宗三左文字は建勲神社所蔵ですが、現在は京都国立博物館に寄託されています。ただし、これらの刀剣は必ずしも常設展示されているわけではないので、特別展などの展示予定をチェックする必要がありますね。
現存しない刀もある
現存する刀がある一方、焼失してしまったとされるものや行方不明の刀もあります。
■不動国行
明暦の大火で焼刃したため再刃。その後、8代将軍吉宗の命により模造されています。吉宗から紀州徳川家に贈られましたが、明治2年(1869)には徳川宗家に返還されました。昭和12年(1937)に重要美術品として認定されたものの、その後行方不明となっています。
■実休光忠
備前長船の刀の中でも信長が特に執着したのが、三好実休(みよしじっきゅう)が戦死したときに所持していたこの刀です。堺の商人に鑑定させ愛蔵したといわれていますが、本能寺の変で焼失してしまいました。
■薬研藤四郎
実休光忠と共に焼失したとされるのが薬研藤四郎です。もともと足利将軍家の重宝だったこの刀は、本能寺の変で焼け落ちたという説や、本能寺の変の際に安土城から持ち出され豊臣家に渡ったという説など諸説あり、現在でも確かなことはわかっていません。豊臣秀吉から徳川家に渡り、将軍家が所持していたともいわれていますが、その消息は不明です。
■不動行光
本能寺の変で焼けた刀としては不動行光も挙げられます。ただし、この刀には異説があり、小笠原家の言い伝えでは、信長から信雄へ伝わった後に小笠原忠真(おがさわらただざね)が拝領したとされています。こちらは現存し、個人蔵となっています。
家臣たちに贈られた刀
名刀を収集していた信長ですが、中には家臣たちに贈られた刀もあるようです。
森蘭丸と不動行光
信長は小姓の森蘭丸に不動行光を与えており、これにはエピソードが残されています。
ある時、信長が「拵えの刻鞘(きざみざや)の数を言い当てた者にこの不動行光をやろう」と言ったところ、蘭丸だけが無言でした。信長が理由を聞くと「知っていながら知らぬふりをして言い当てるのは嫌です」と返答します。蘭丸は厠(かわや)に行く際に、信長から手渡された刀のこしらえの刻鞘を数えていたため、正解を知っていたのです。信長はこの正直さを称賛して不動行光を与えました。
信長は不動行光をよく自慢しており、酒に酔って気分が高揚すると膝をたたいて「不動行光、つくも髪、人には五郎左御座候」と歌ったといいます。それほど気に入っていた刀を贈ったのですから、蘭丸の言動によほど心打たれたのでしょう。
織田家から伊達家、そして天皇家に渡った鶴丸国永
北条家所蔵だったといわれる鶴丸国永は、信長によって御牧景則(みまきかげのり)に与えられます。初期の所有者には諸説あるものの、鶴丸は鎌倉時代に安達氏に伝わった後、第9代執権の北条貞時が入手したという説が通説です。貞時はこの刀欲しさに墓を暴いたという説もあるほどですが、信長がどのようにこの刀を入手したかは不明となっています。
鶴丸は景則からその子・信景に伝わりましたが、関ヶ原の戦いで没落した際に手放したのか、いつからか伏見の藤森神社にあったといわれています。鑑定でお墨付きを得た後は伊達家に譲られ、それから約200年にわたって伊達家の秘蔵刀として伝わりました。つまり、鶴丸は戦国武将として有名な織田家から伊達家を渡り歩いた刀ということになります。さらに、明治34年(1901)伊達家によって研ぎに出された後は、明治天皇へ献上されました。
信長の刀を見てみたい!
権力者の元を転々としてきた刀には独特の威厳や重みが感じられますよね。現代では使われることがない日本刀ですが、漫画やゲームといった創作物で再び光が当たったことで、保存や復元を求める声も高まりました。日本刀は今後も重要な文化として継承されていくことでしょう。信長の愛刀には、国宝や重要文化財などとして現存しているものも多くあります。展示会などで一般に公開されるときは、ぜひ一度ご覧になってみてはいかがでしょうか。
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