石田三成は秀吉の政策を推進するため、汚れ役も厭わず忠実に仕えました。ただ、意思の疎通に欠けていたことで福島正則や加藤清正などの武断派の武将から恨みを買い、命を狙われてしまいます。
しかし、同時に私心なく秀吉のために仕えた三成を評価する人間も多かったのです。
三成の豊臣家への忠義に味方
関ヶ原の折、盟友・大谷吉継は、上杉討伐令を発した徳川家康の許に駆け付けるつもりでいました。石田家の将来を案じる吉継は、三成の嫡男・重家を連れて行こうと佐和山を訪れました。
しかしこの時、吉継は反家康の旗を揚げると三成から打ち明けられます。
不利は承知でしたが、吉継は三成の豊臣家への忠義に、味方につく決心をしました。
また同様に、石田・大谷両家と縁の深い真田家からも、父・昌幸と次男・信繁(幸村)は三成の西軍に味方しました。
佐和山城陥落と三成の妻・皎月院(うた)の死
しかし、関ヶ原の決戦は、一日で決着がついてしまいます。
三成は再起を図って逃走を続けましたが、潜伏中についに捉えられ、処刑されてしまいます。
その後、三成の居城であった佐和山城が家康方の軍勢に攻められ、三成の父・正継や三成の妻・皎月院(うた)など多くの石田家一族が自害したと言われています。
三成の妻・うたは宇多頼忠という武将の娘で、姉が真田昌幸の正室・山手殿だったという説が伝わっています。
数少ない資料によると、結婚したのは三成が秀吉に仕官した18歳頃で、その1~2年後に長女を産んだのではとみられています。あまり情報はないものの悪評が伝わっていないことから、三成の権勢を使って行動するような女性ではなかったことは確かでしょう。
家康に逆らった三成の家族は悪く書かれていても不思議ではありませんが、それがなかったということは、とても控えめな女性であったのではないでしょうか。
命がけで守られた三成の子供たち
三成とうたの間には三男三女がありました。もちろん、この子供たちは殺されても不思議はありません。
しかし、多くの人々が三成の子を命がけで守ったのです。
嫡男の重家は、三成が敗れたという報がもたらされると、すぐに出家し、京都の妙心寺に匿われました。
豪商・角倉了以の従兄弟で妙心寺住職だった伯蒲慧稜は、なんと京都所司代に重家の助命を嘆願します。
しかも、これが許されたのです。過去にも仏門に入ることで許される例もあり、重家もその一例であったと捉えるべきでしょう。
もし大名が三成の子を無断で匿ったら、取り潰される可能性があります。
それを承知で三成の次男・重成と三女・辰姫を匿ったのが、陸奥の津軽家です。
三成と親交のあった津軽信建が、なんと独断で二人を陸奥に連れて帰ったのです。
父の津軽為信は、戸惑いながらも長男の判断を咎めませんでした。重成は杉山源吾と名を変えて、津軽家に守られます。
そして、杉山家は代々、津軽家の重臣として仕えることになったのです。
また、辰姫は、自分たちを助けてくれた信建の弟・信枚の妻に迎えられました。
信建の死によって、信枚は陸奥国弘前藩2代目藩主になり、辰姫は藩主の妻になったのです。信枚と辰姫の仲は睦まじく、二人の間に生まれた長男・信義は3代目藩主になりました。
上方から遠く離れた陸奥の地で、三成の血筋は密かに繋がっていったのです。
三成に敵が多かったのは事実でしょう。
しかし、三成の恩義を感じていた人物もまた多かったのです。
権勢に従うだけならば、敗れた三成の遺児のために尽力する人はいなかったでしょう。命や家の危険を顧みず、これだけの人が三成の子供を匿い、助けてくれた事実こそ、三成の人間性や魅力を物語っているのではないでしょうか。
(黒武者 因幡)
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