【光秀の重臣:明智秀満(左馬助)】光秀の右腕としての一生と逸話

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2020年の大河ドラマ『麒麟がくる』では、織田信長の家臣・明智光秀が主人公として描かれています。光秀といえば戦国時代でもっとも大きな謀反を起こした人物として有名ですが、このような大事件も彼一人では成立しなかったでしょう。この出来事の裏には、普段から光秀を支えていた武将らの働きがありました。その武将の一人が、光秀の重臣で右腕ともいわれる明智秀満です。
今回は、秀満の前半生と光秀の片腕としての活躍、本能寺の変と秀満の最期、残された逸話などについてご紹介します。

秀満の謎多き前半生とは?

秀満はどのような人物だったのでしょうか?まずは彼の前半生について振り返ります。

出自には諸説ある

秀満の前半生については諸説ありますが、もともとは三宅弥平次といい、光秀の娘との結婚後に明智姓を名乗ったといわれています。『明智軍記』では光秀の叔父・明智光安の子の光春として登場しており、光秀とは従兄弟という関係性になっています。後世の書物では、光春の通称として「明智左馬助」と呼ばれることもあるようです。なお、秀満の妻についても諸説あり、通説では光秀の長女といわれています。

明智光秀とともに城を脱出

もともと明智氏だったという説をとる『明智軍記』によれば、秀満は明智嫡流の光秀の後見として、父・光安に従っていました。しかし、弘治2年(1556)斎藤道三とその子・斎藤義龍の争いである長良川の戦いが起こり、敗北した道三方に加担していたため、義龍方に居城を攻撃されてしまいます。秀満は光秀らとともに城を脱出し、浪人となりました。

明智光秀の右腕として活躍

その後、秀満は光秀の家臣団として活躍していきます。その働きは光秀の右腕といえるほどのものでした。

光秀の娘と結婚、領国経営に関わる

坂本城跡公園には明智光秀像が建てられています。

天正6年(1578)以降、秀満は光秀の娘を妻に迎え、明智姓を名乗るようになります。ただし、史料にその名が登場するのは天正10年(1582)4月以降のことです。光秀と姻戚関係を結んだ秀満は、坂本城の築城に関わるなど、光秀の領国経営に大きく携わるようになりました。

戦略拠点・福知山城の城代に

このころ光秀は丹波平定の命令を信長から受けており、福智山城をその戦略拠点としました。この城は山城・丹後・但馬へと続く交通の要所で、光秀は丹波平定後、秀満をこの城の城代としました。重要な拠点を任されたことからも、光秀の信頼がいかに厚かったのかがわかるでしょう。秀満の在城は天正10年(1582)までとされ、そのあいだに茶人・津田宗及らをこの城でもてなしています。

本能寺の変と秀満の最期

光秀の右腕として活躍した秀満ですが、やがて大きく運命が変わります。そのきっかけは本能寺の変でした。

先鋒となって信長を襲撃!

福智山城の築城から3年、光秀は謀反の計画を秀満ふくめ5人の重臣に伝えます。『信長公記』によれば、このとき4人は押し黙ったものの、秀満が了承したため追随したといいます。そして秀満は、「もはや躊躇(ちゅうちょ)することはない」と光秀の謀反を後押ししたのです。天正10年(1582)6月、いよいよ本能寺の変が勃発すると、秀満は先鋒となって突撃し見事に信長を倒しました。

安土城に入り光秀天下に備えたが…

大阪城天守閣所蔵の安土城図です。

信長の自害後、別動隊を与えられた秀満は、信長の本拠地である安土城の守備に就きます。これは光秀天下の世を作るための戦略でしたが、あろうことか光秀は、その数日後に羽柴秀吉との山崎の戦いで敗死してしまいました。不測の事態に陥った秀満は、すぐに安土城を捨てて坂本城へと向かいます。

堀秀政に坂本城を包囲され覚悟を決める

秀満はなんとか坂本城に辿り着きましたが、秀吉軍の先鋒武将・堀秀政の軍勢に城を包囲されました。しばらく防戦したもののついに策が尽き、最後は光秀の妻子や自分の妻を刺殺し、城に火を放って自害。それに先立ち、名刀や茶器などの名物がなくならぬよう、目録を添えて秀政方に引き渡したといいます。秀満は、自分が築城に関わった坂本城で最期を迎えたのでした。

残された逸話

史料が少なく明確なことがわかっていない秀満ですが、彼にまつわる逸話がいくつか残されています。ここでは2つのエピソードをご紹介します。

「明智左馬助の湖水渡り」伝説

歌川豊宣の『明智左馬助の湖水渡り』(『新撰太閤記』より)

本能寺の変後、安土城から坂本城にひきあげた秀満は、道中の大津(現在の大津市打出浜周辺)で秀政の兵に遭遇しました。味方の兵士らが次々と討たれ窮地に陥った秀満は、ピンチを切り抜けるためにある行動に出ます。それは、馬に乗ったまま琵琶湖を泳いで渡るという大胆な作戦でした。秀政は秀満が沈むときを待ち構えていましたが、秀満は対岸まで渡りきり、無事に坂本城に辿り着いたのです。
これは『川角太閤記』に登場する「明智左馬助の湖水渡り伝説」ですが、真偽は不明とされています。現在ではこの場所に「明智左馬之助湖水渡」の石碑や、「明智左馬之介駒止の松」といった松の木が残されています。

安土城を放火した犯人にされた?

山崎の戦い後、安土城は謎の火災で本丸周辺が焼失しました。『秀吉事記』や『太閤記』では安土城を去った際に秀満が放火したとされていますが、この火災が起こったころ秀満はすでに坂本城にいたため、犯人とはいえないようです。秀満のあとに安土城に入ったのは、信長の次男・織田信雄でした。ルイス・フロイスの書状には、安土城を焼いたのは信雄だと記述されていますが、これも伝聞によるものなので真偽はわかりません。信雄については失火説もあるものの、放火であれば動機が不明瞭といえるでしょう。
安土城の焼失後、秀吉はごく近くに城を建てました。もしかすると犯人はもっと別の人物かもしれません。

見事な散り際を見せた戦国武将

秀満は光秀の右腕として活躍し、最後まで重臣としての役目を全うしました。史料の少なさから詳細がわからない部分も多いですが、その毅然とした散り際だけ見ても、彼の武勇や手腕がうかがえるでしょう。本能寺の変後に安土城に入ったことからも、光秀が天下人となった暁には、重要な役割を担う予定だった武将といえそうです。
彼は坂本城で秀政方に名物を引き渡した際、光秀秘蔵の脇差だけは「あの世で光秀に渡すから」と自らの腰に差したといわれています。もし光秀の世となっていたら、秀満もさらに大きく飛躍していたかもしれません。

 

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