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【 討ち入りが変えたもう一つの運命 】 赤穂浪士の義挙が生んだ悲劇の御曹司・吉良義周

吉良邸討ち入り。(二代目山崎年信画)

吉良邸討ち入り。(二代目山崎年信画)

師走といえば「忠臣蔵」として有名な元禄15(1703)年に起こった赤穂浪士の吉良邸討ち入り事件ですね。
この事件をテーマに数多くの芝居や映画、小説が作られてきましたが、それらは大幅な脚色が加えられており、史実を正確に伝えているわけではありません。
例えば、浪士たちのリーダー大石内蔵助が討ち入りを告げる山鹿流陣太鼓を打ち鳴らし、寝入っていた吉良方の家臣たちが次々に目覚めて迎え撃つ場面がありますが、これはおそらく虚構だろうと言われています。そもそも浪士隊は太鼓を持っていなかったようですし、完全な奇襲を狙っていたため討ち入ることをわざわざ敵に知らせるようなことはしなかったでしょう。

ただ、この事件がさまざまな関係者のその後の人生を大きく変えてしまったということは紛れもない事実でした。その1人が吉良左兵衛義周(きらさひょうえよしちか)です。

米沢藩主・上杉綱憲の次男で、5歳の時に実の祖父である吉良上野介義央の養子となりました。討ち入り当時、上野介は隠居していたので吉良家の正式な当主は18歳の義周でした。このため、吉良家への復讐に燃えていた浪士たちは上野介の命だけではなく義周も標的としており、浪士に配られた討ち入り心得には義周の首を討ちとった場合の措置が記されてあったそうです。

小説などでは、赤穂浪士の仇討ちを当然のように予想していた吉良方が剣客を雇い、屋敷の防備を固めたとされています。しかし、実は吉良家にとって討ち入りはまったく想定外の出来事で、何の備えもしていなかったことが分かっています。つまり、無警戒で寝静まっているところに完全武装をした47人の集団がいきなり襲撃してきたわけです。
このため吉良家の家臣たちは屋敷内で起こっていることをすぐには理解できず、大いに混乱したそうです。

「忠臣蔵十一段目夜討之図」  (歌川国芳画)

「忠臣蔵十一段目夜討之図」 
(歌川国芳画)

そのような中、義周は複数の浪士を相手に自ら薙刀を持って奮戦。額や肩を斬られたほか、肋骨も折るなどの重傷を負いました。上野介を討ちとって浪士が去った後、検分に訪れた幕府の役人にも面会。その立ち居振る舞いは名家の御曹司にふさわしく立派なものだったと伝えられています。

討ち入り後、暗転した義周の運命

しかし、討ち入りを境に義周の運命は暗転しました。
幕府は浪士全員を切腹、義周には「当日の振る舞い不届き至極」という不可解な理由で領地没収、信州高島の諏訪家にお預けという処分を下します。浪士たちが切腹して7日後の元禄16(1703)年2月11日、義周は囚人駕籠に乗せられ、江戸を出発。随行が許された家臣は2人だけというさびしいものでした。

諏訪高島城の復興天守

諏訪高島城の復興天守

幽閉された高島城南の丸は、かつて改易となった徳川家康の六男・松平忠輝が留め置かれた場所。ここで義周は厳重な監視下に置かれながら、お預け3年目の宝永3(1706)年に21歳の若さで亡くなりました。信州の厳しい気候が死期を早めたともいわれています。遺体は塩漬けにして防腐処理され、2人の家臣が諏訪湖のほとりにある法華寺に埋葬。しかし、所持金が3両しかなく、やむを得ず自然石の墓を建立したという悲しい最後でした。

芝居や講談などの影響で日本人の脳裏には、赤穂浪士は「義士」、吉良は「悪役」との構図が刻み込まれてきたことが多いと思います。しかし、松の廊下での刃傷と何の関係もなかった義周にとって、この評価はあまりに不当ではなかったでしょうか。一切の弁解も許されないまま亡くなった義周ですが、その生涯にもっと光が当たっていれば、事件への見方は大きく変わったものになったでしょう。義周の視点で描いた忠臣蔵の物語も見てみたいものです。

(黄老師)

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