鎖国後の日本は不平等条約を締結させられ、治外法権の撤廃など、条約改正までの道のりがとても長かったことはよく知られています。条約改正を実現させた外務大臣・陸奥宗光には、美貌で知られた妻がいました。今回は「鹿鳴館の華」と呼ばれた陸奥宗光の妻、陸奥亮子の生涯に迫ります。
新橋芸者として
陸奥宗光の妻、亮子は1856(安政3)年に江戸で生まれました。父は金田蔀という名の旗本でしたが、母は正妻ではなく妾であったため、それほど恵まれた子供時代を送ってはいなかったようです。少女のころのことはよくわかっていませんが、明治になり近代の夜明けが起こったころに東京新橋の「柏屋」に入り、芸者として働くようになりました。源氏名は「小鈴」。その美貌は瞬く間に知れ渡り、新橋では板垣退助の愛妾であった子清とともに「双美人」と呼ばれるようになりました。もっとも花柳界という場にいながら、亮子は男性にはさほど興味がなかったとの言い伝えもあります。
夫となる男 陸奥宗光とは
1844(天保15)年に紀伊国(和歌山県)で生まれ国学や歴史を研究する父・伊達宗広のもとで六男として育った陸奥宗光は、父が藩内の政治闘争で失脚したがゆえに貧しい少年時代を送っていました。もっとも、安政5年(1858年)、江戸に出て安井息軒に師事するまでの志は見事でしたが、間もなく破門されています。その理由というのが「吉原通い」というものでした。なんとも情けない理由です。しかし、その後も水本成美に学び、土佐藩の坂本龍馬、長州藩の桂小五郎(木戸孝允)・伊藤俊輔(伊藤博文)などの志士と交友を持つようになると、勝海舟の神戸海軍操練所や坂本龍馬の海援隊(前身は亀山社中)に加わったのです。勝海舟と坂本の知遇を得た陸奥の才能は開花してゆきます。特に坂本は陸奥の実力を心から信じていたようで、その死まで行動を共にしました。
明治維新後は岩倉具視の推挙により、外国事務局御用係に任ぜられます。これが日本史に名を残す外交のプロ・陸奥宗光のスタートだったといえるでしょう。最初に手掛けたのは戊辰戦争の際に中立を表明していたアメリカからストーンウォール号の引き渡し締結に成功したことでした。その後は、兵庫や神奈川県の知事(県令)、地租改正局長(1872年)などを歴任しましたが、紀伊出身であったため薩長が力を持つ藩閥政府に怒り、和歌山に帰ってしまいます。しかし、やがて藩閥政府と民権派が和解したため政府に戻り、元老院議官となりました。
陸奥には蓮子という夫人がいましたが、1872(明治15)年に死別しています。そして翌年再婚した相手が亮子でした。新橋の芸者だった亮子と、かつて吉原で遊興にふけっていた陸奥との出会いは、偶然でもあり必然でもあったように思えます。結婚翌年には長女・清子が誕生し、亮子は蓮子が遺した長男・広吉と次男・潤吉もふくめて、三人の子育てに追われることとなりました。
西郷隆盛の最後で知られる西南戦争が1877(明治10)年に起こると、それに乗じて土佐立志社の林有造・大江卓らが政府要人の失脚を謀りました。それを察知した陸奥は彼らと接触を持ちます。結局西南戦争は政府軍の勝利に終わり、政府は安泰、陸奥はこの件で投獄されることとなりました。禁錮5年が言い渡されたのです。
山形監獄に収容された陸奥は、妻亮子にあてた手紙を書き続けました。行き場のなくなった亮子は陸奥の友人の家に姑の政子とともに身を寄せ、政子の世話と子育ての傍らで獄中の陸奥を待ちました。陸奥の手紙には漢詩が多く、夫婦の慕情が多くつづられていたようです。
一方で陸奥は監獄において執筆活動をつづけ、イギリスの功利主義哲学を学び、ベンサムの著作を翻訳し続けました。これは出獄後に「利学正宗」のペンネームで出版されました。また、当時収監されていた山形監獄が火災に遭い「陸奥は焼死した」との誤報が流れたことがありました。しかし、これが誤報であることがわかると、伊藤博文が手を尽くして当時最も施設の整っていた宮城監獄に移させたのでした。このように、陸奥は監獄にいても厚遇されていたようです。
鹿鳴館の華と条約改正への道
1882(明治15)年、陸奥は特赦によって出獄し、翌年からはヨーロッパに留学しました。滞在したロンドンで書いたノートは今も残されており、内閣制度や議会のしくみをしっかりと勉強していたことがうかがえます。留学中も陸奥は亮子に手紙を書き続け、その数は50通を超えるほどでした。まだ今ほど郵便が便利ではない時代に、陸奥は愛妻への思いを書き続けたのでした。そして3年後の1886(明治19)年、帰国した陸奥は政府に入り、亮子は社交界デビューを果たします。かわらぬ美貌を誇っていた亮子は、戸田氏共伯爵夫人の極子と並び「鹿鳴館の華」と称されるほどでした。
その後、陸奥は駐米公使となり、亮子はいっしょに渡米しました。美しさのみならず、洗練された話術を持っていた亮子は、「第一等の貴婦人」と謳われ「ワシントン社交界の華」「駐米日本公使館の華」と呼ばれるほど。そして陸奥は帰国後第2次伊藤博文内閣に迎えられ外務大臣に就任すると、 1894(明治27)年、イギリスと日英通商航海条約を締結したのです。これは、不平等条約である治外法権の撤廃に成功したもので、日本の悲願がかなう第一歩となりました。獄中での、留学先でのたゆまぬ努力に加え、手紙で夫を支え続けた亮子の存在がその背景にはあったに違いないでしょう。その後も、アメリカ、ドイツ、イタリア、フランスなどと条約を改正。陸奥が外務大臣をつとめているあいだに、15カ国と締結させられていた不平等条約が改正されたのです。この功績により、陸奥は子爵になりました。一方で、1993(明治26)年には長女の清子を亡くしています。
1894(明治27)年5月に日清戦争が勃発しました。この際、陸奥の働きにより、イギリスとロシアは清に味方せず、中立を守りました。この際のイギリスとの協調、清への強硬路線は陸軍の動きにも伴うもので、「陸奥外交」と呼ばれました。戦後は日本の全権として1895(明治28)年に下関条約を調印。この功績でさらに伯爵の地位にのぼるまでになりました。
しかし、日清戦争後の「三国干渉」の心労がたたったのか、以前から患っていた肺結核で療養に入ることになります。そして外務大臣を辞め、「聴漁荘」と呼ばれる大磯の別宅などで生活するようになりました。そして外務大臣を辞した翌年の1897(明治29)年に東京で逝去しました。
日本の外交を支えた妻として
その美貌と社交性で、陸奥を陰日向なく支え続けた亮子の人生はそれほど詳しくはわかっていません。しかし、陸奥を思う心は相当に大きかったのでしょう。彼女は陸奥が亡くなって三年後の1900(明治33)年に44年という長くない生涯を閉じました。その3年の間、亮子は金田冬子という、陸奥と祇園の芸者との間の子を引き取って面倒を見ていました。実子は1人であったにもかかわらず、先妻と妾の子を3人も育てたのです。そこに、亮子の懐の深さ、人間の大きさを見てとることができるでしょう。日本の外交の父である陸奥宗光も、見方を変えれば妻の亮子が育てたようなものかもしれません。
このように、日本の歴史の裏側には、あまり表に出てこないけれどもしっかりと夫の仕事を支えた妻の存在が多くあります。そのことを考えてみると、歴史の見方も、またかわってくるでしょう。
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