【花魁道中とは?】遊女が最高位に就くための道のりと遊郭のしきたり

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【花魁道中とは?】遊女が最高位に就くための道のりと遊郭のしきたり

花魁(おいらん)といえば、今でも映画や漫画で取り上げられるほど魅力的な存在ですよね。江戸時代の男性であれば、一度はお相手願いたい相手だったのではないでしょうか。とはいえ、江戸吉原において花魁は遊女の中でもトップの存在。なかなか現実には手が届かなかったことでしょう。人々を魅了した彼女たちですが、高級遊女である花魁になるには厳しい道のりがありました。

今回は、花魁道中と彼女たちの厳しいしきたりについてご紹介します。

花魁道中とは?

花魁道中の絵
花魁道中の絵です。見物客が大勢いるのがわかります。

トップの花魁ならではのしきたりの一つに花魁道中があります。これは一体どのようなものだったのでしょうか。

花魁道中の意味について

花魁道中とは、美しく着飾った花魁が揚屋や引手茶屋まで馴染み客を迎えに行くことです。これが行えたのは、トップクラスの遊女である花魁と、その下の階級の格子(こうし)だけでした。揚屋とは江戸時代に、客が置屋から太夫や花魁などの高級遊女を呼んで遊んだ店のこと。お茶屋より格が上でした。常連客は遊郭にやってくると、最初に揚屋に上がりお気に入りの花魁を指名します。そして花魁が来るまで、酒を飲みながら芸者や幇間(ほうかん、太鼓持ち)の芸を楽しみました。指名を受けた花魁は、美しく飾り立てて揚屋まで歩き、客を連れて自分の妓楼(ぎろう)に戻ります。この様子を旅に見立てたことから、「道中」と呼ばれるようになりました。

花魁道中に込められた想い

花魁道中の際は、まだ幼い見習いの禿(かむろ)や、遊女の妹分にあたる新造(しんぞ)、雑務などをこなす男性従業員の下男(げなん)らが花魁の脇を固めます。馴染み客を迎えにいくだけでもこのようなしきたりがあるのですから、花魁も大変だったことでしょう。しかしこれは、花魁にとって威厳を保つために必要なものだったと考えられます。

当時、花魁と馴染みの仲で居続けるには大変な金額がかかりました。花魁の揚代のほかにも、芸者や幇間、その他全スタッフに対する祝儀や酒代など、一晩に40両かかることもあったそうです。1両は現代の金額に換算すると約7万5千~13万円なので、たった一晩で約300万~520万円を支払うことになります。馴染み客は大金を支払うことで自分の力を誇示し、花魁自身もそれを周囲にアピールできたといえるでしょう。

どうしたら花魁になれるのか?

花魁の手元

きらびやかな花魁ですが、誰でもその立場になれるわけではありませんでした。遊女が花魁になるには、さまざまなステップがあったのです。

禿から振袖新造になるのが一般的

遊女から花魁になる場合、禿から振袖新造に、振袖新造から花魁になるという道のりを辿るのが一般的でした。
禿は10歳前後の少女で、花魁の身の回りの雑用をこなしながら遊郭でのルールを学びます。彼女たちは、姉貴分に当たる遊女によって教育されました。
15~16歳になると、見込みのある禿は遊女見習いの振袖新造になります。花魁の代理として客に呼ばれても基本的には床入りはしませんが、中には隠れて客を取る人もいたようです。振袖新造になった少女は、花魁への道が約束されたも同然でした。
17歳で正式な遊女になると、その後は花魁へとランクが上がっていきます。花魁の中にも大きく「呼出し」「昼三」「付廻し」といった3つのランクがありますが、容姿や教養のグレードによって振り分けられていたようです。

花魁になるには教養が必要だった!

さまざまな階級がある遊女の世界ですが、花魁になるためには美貌だけではなく教養も必要でした。特に読み書きや書道は男性に手紙を書く上でも必要で、「遊女はいつも手紙を書いている」と言われるほどだったとか。気の利いた内容を書けるだけでなく、字も綺麗だったようです。

また、幼少期から琴・三味線・歌・茶道などの芸事も叩きこまれており、古典や囲碁といった知性が感じられる教養も兼ね備えていました。これだけ多彩であれば、どんな客ともうまく会話ができたことでしょう。花魁に夢中になる男性は、美しさだけではなく知的な部分にも惚れていたのかもしれません。

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遊女たちとしきたりについて

明治時代の花魁
明治時代の花魁の様子。左は遣り手で、右は禿です。

遊郭では大勢の人間が働いており、独自のしきたりがありました。どんなものがあったのか、その一部をご紹介します。

習得に3年かかる八文字で歩く

花魁道中の際、花魁が見せる歩き方として「八文字」があります。これは黒塗りの三枚歯の高下駄を履いて特徴的な足運びをするもので、マスターするまでに3年かかるといわれています。
古くは京都の道中で使われた「内八文字」が始まりで、これは内側から足を踏み出すため、動きが小さく、おしとやかな印象を与えました。しかし時代が移り変わると、女性らしい「内八文字」から派手さが感じられる「外八文字」へと変化していきます。
「外八文字」は、明暦元年(1655)頃の有名な遊女・勝山が作りだしたもので、外側に大きく足を踏み出してから八の字に置くものです。遊女は歩き方一つとっても、いろいろなルールがあったのですね。

花魁は遊女たちの面倒を見ていた!?

上客をつなぎ留め一晩で大金を稼ぐ花魁ですが、彼女らが裕福かといえばそうとはいえなかったようです。花魁は多くの禿や新造を従えるため、自分の座敷を維持するのに多額の費用が必要でした。いわば収入も支出も多い状態だったのです。他の遊女たちの費用も負担していたと考えると、並大抵の稼ぎではやっていけなかったのかもしれません。遊女は若さが武器となる商売のため、20代を過ぎるとほとんど需要がなくなります。しかしレベルの高い花魁は、客に身請けされ遊郭を卒業することもありました。これには莫大な金額が必要で、多くの場合は大名や豪商の後妻・妾などになります。花魁としてはこれが一番幸せなゴールだったようです。身請けされて幸福になれば、みんなの面倒を見ていた苦労も報われるというものでしょう。

艶やかな世界の裏には

花魁道中

一握りの遊女に許された花魁道中。それは、艶やかに着飾って客を魅了していた花魁の特権でした。しかし、花魁として活躍した女性全員が、身請けされ幸せをつかめたとは限りません。そう考えると、花魁の美しさは儚さと隣り合わせといえそうですね。遊郭では梅毒にかかる遊女もおり、そのような場合は死を待つしかなかったようです。江戸吉原のような艶やかな世界は、日本の文化として現代にも語り継がれています。しかしその裏には、遊女たちのさまざまな苦労があったのです。

 

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