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【 仇討ち制度 】 40年越しの復讐劇、衆道のもつれ…武士の敵討ち制度と意外な理由

【 仇討ち制度 】 40年越しの復讐劇、衆道のもつれ…武士の敵討ち制度と意外な理由

敵討ちと言えば、「忠臣蔵」が思い浮かぶ方が多いと思います。
それに、時代劇などでは「父上の仇!」など、敵討ちのシーンを見かけることがよくありますよね。

実は、敵討ちは武士にのみ許されていた「制度」だったのです。しかし、敵討ちを行うにしてもいろいろな決まりがありました。そして、敵討ちの理由にも、そんなことで?と思うようなものもあったのです。
それでは、敵討ちの決まりとエピソードについてご紹介しましょう。

敵討ちにも決まりがあった

史料で確認できる史上初めての敵討ちは、日本書紀に登場する「眉輪王の変(456年)」です。
しかし、敵討ちがよく見られるようになったのは、武士が台頭した中世以降のことでした。

曾我物語圖會(1800年頃)

曾我兄弟の仇討ちを題材にした「曾我物語圖會」(1800年頃)

敵討ちは、直接の尊属(親・兄)を殺した者に対する復讐で、卑属(妻子・弟妹)や主君・部下には認められませんでした。そして、行うに当たっては主君の免状や奉行所への届け出が必要だったのです。
これがなければ、敵討ちは殺人として処理されました。この制度は、明治政府が禁じるまで続いています。

驚きの理由!日本三大仇討ちのひとつ「鍵屋の辻の決闘」

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「赤穂浪士の討ち入り」「曾我兄弟の敵討ち」と並ぶ日本三大仇討ち「鍵屋の辻の決闘」の発端は、岡山藩主・池田忠雄の美貌の小姓・渡辺源大夫が、藩士・河合又五郎の求愛を拒んだことでした。
逆上した又五郎は、源大夫を殺してしまいます。そして江戸へ逃げ、旗本の安藤次右衛門に匿われました。

寵臣を殺された忠雄は怒り、又五郎の引き渡しを幕府に訴えますが、安藤は拒否します。こうして、ただの衆道を巡る争いではなく、外様大名と旗本の争いにまで発展してしまいました。
やがて忠雄は病死しますが、源大夫の兄・数馬に又五郎を討つように遺言を残したのです。

幕府は喧嘩両成敗として池田家を国替えし、安藤を謹慎処分として又五郎を江戸から追放します。
しかし、数馬は主君から上意として敵討ちを命じられた以上、退くわけにはいきませんでした。そこで、姉婿で剣の達人・荒木又右衛門に助力を頼みます

「助太刀した荒木又右衛門の方が人気です」

「助太刀した荒木又右衛門の方が人気です」

2人は又五郎の行方を探し、ついに奈良にいることを突き止めました。
又五郎は危険を察知し江戸へ戻ろうとしましたが、その途中、鍵屋の辻で数馬と又右衛門の待ち伏せに遭います。
又右衛門の助太刀のもと、数馬は又五郎に斬りかかり、見事敵討ちを成功させたのでした(実は剣に不慣れで、5時間もかかったそうですが・・・)。

これには、現場の津藩の領主藤堂家の密かな支援があったとされています。
藤堂家も池田家と同じく外様で、ここにも外様と旗本の争いが見え隠れしています。

衆道仇討ちは、江戸時代にはかなり多かったそうですよ。あまりにも多いので衆道を禁止する動きもありました。

40年かけた復讐劇!久米幸太郎

「久米幸太郎仇討ちの地に建てられた石碑(石巻市)」

「久米幸太郎仇討ちの地に建てられた石碑(石巻市)」

越後国新発田藩士・久米幸太郎は、7歳の時に父を滝沢休右衛門に殺されました。
残された幸太郎ら家族は藩から援助を受けながら生活し、藩主から直々に激励を受け、行方不明の休右衛門を探して旅に出ます。

しかし休右衛門の行方は知れず・・・、幸太郎は虚無僧や医者に身をやつしながら敵討ちの旅を続けました。
そして、偶然にも休右衛門が石巻近郊の寺で僧となっていることを知るのです。
幸太郎の前に現れた休右衛門は老人となっていましたが、幸太郎は迷わず仇を討ちました。
この時幸太郎47歳、休右衛門82歳。実に40年の歳月がかかった復讐劇となったのです。

いかがでしたか?
江戸時代の敵討ちに衆道が絡むことが多いというのは初耳でした。いつの時代も恋愛絡みになると盲目になるのは同じなのですね。
一方、40年も諦めなかった幸太郎の執念もまた、武士らしさを感じます。

(xiao)

参照元:伊賀越オンラインショップ 

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