明治の女性実業家・広岡浅子を題材にした『あさが来た』に続き、「暮らしの手帖」創刊者の大橋鎭子をモデルにした『とと姉ちゃん』など、このところ女性が活躍する姿を描いた朝ドラが人気を博しています。働く女性たちは共感するところが多いのではないでしょうか?
仕事ができ、どんなに優秀に見える女性にも意外な一面があるものです。
歴史の潮流に翻弄されながらも、影に日向に活躍し、現在の日本へとその功績が残るキャリアウーマンの実績と素顔をご紹介します。
平安時代のインテリキャリアウーマン「紫式部」
794年から1185年頃まで続いた雅(みやび)な平安時代。そんな華やかな京の町で歌人・作家として活躍していたのが紫式部です。
紫式部が書き上げた「源氏物語」は現在でもファンの多い人気長編恋愛小説。現在では女流作家の活躍は珍しくありませんが、紫式部は「世界で最初の女流作家」なのです。
中国の歴史書である「史記」を暗記した才女として名高い紫式部は、藤原彰子(ふじわらのしょうし)の家庭教師として宮中に入ります。
ただ、藤原彰子のライバルであった藤原定子(ふじわらのていし)の家庭教師の清少納言の事を毛嫌いしており、「紫式部日記」の中で「漢字が使えるからってひけらかすな!中身無いのよ!」とボロクソに。
藤原氏が絶対的権力を持つ摂関政治の権力闘争の中で、歴史的才女である紫式部にもストレスは多かったのかも知れません。
大奥の礎を築いた江戸時代のキャリアウーマン「春日局」
天正7(1579)年に斎藤利三の娘として生まれ、本名は「斉藤 福(さいとう ふく)」。
江戸城大奥の礎を築き、300年続いた徳川の政治を安定させた人物であり、朝廷から「春日局」の称号を下賜されます。
父・斎藤利三は秀吉側として闘い、春日局はいわば「反逆者の娘」。しかも、幼少期の痘瘡の痕が多く残っていたため「不美人」と伝えられています。
居住地を転々とし稲葉正成の後妻へ入りますが、夫が愛人を家に囲い好き放題することに耐え切れず、愛人を刺し殺し3人の息子を残し家を飛び出ることに。
偶然にも京の高札場に「乳母募集」の求人を発見し、徳川家康の孫であり後に3代目将軍・家光となる「竹千代(たけちよ)」の乳母として採用されます。
ただの乳母ですが、「お伊勢詣りへ」と言い隠居していた大御所・徳川家康の元へ出向き、竹千代を世継ぎへ指名するなど、磐石の江戸幕府の実現のために奔走。
「夫の愛人を殺した反逆者の娘」から「将軍の乳母」、そして「朝廷も認める春日局」へと成り上がった江戸時代のキャリアウーマンが春日局なのです。
現代にもつながる、自立した女性を育てた「津田梅子」
元治元(1864)年、現在の東京都新宿区に生まれた津田梅子。
明治4(1871)年、岩倉使節団に随行する形で、6歳で渡米したことをきっかけに欧米の学問を習得し、ナイチンゲールやヘレンケラーと対面もします。
日本では留学時に培った人的ネットワークを駆使し、後に「津田塾大学」として引き継がれる「女子英学塾」を開校。従来的な「良妻賢母になるための女子教育」ではなく、「欧米を基礎とした先進的な教育」を実施していきます。
生涯独身を貫き、女子教育のために尽くした津田梅子。
真面目で実直なイメージが語られることも多いですが、ニューヨークで一緒だったジャニスさんの著書では「お喋りが大好きな女の子」とのこと。6歳からアメリカで過ごした津田梅子は、日本語よりも英語の方が楽しい会話ができていたのかも?
日本は「天照大神(アマテラスオオミカミ)」という女性の最高神が存在する世界でも珍しい国。
歴史の中で尽力し輝いてきた女性達がいるからこそ、現在の日本が存在するんですね。
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