歴史好きが戦国時代に惹かれる理由は多くありますが、その中でも魅力的なのは、やはり主従の絆だと思いませんか?今回は、戦国時代の主従の絆をテーマに、時代を代表するカッコいい主従コンビ3組とその主従愛エピソードをご紹介します。
とにかくついていく部下の鑑!伊達政宗と片倉景綱
戦国時代を代表する主従関係といえば、やはりまず思い浮かぶのは伊達政宗と片倉景綱ではないかと思います。政宗の幼少時から景綱は小姓として仕え、政宗が天然痘によって片目を失い自暴自棄になってしまってもずっとサポートし続けました。
そんな彼らの若かりし頃、佐竹氏や蘆名氏ら周辺の大名連合と衝突した人取橋の合戦のこと。
圧倒的に兵力が少なく不利だったうえに、政宗は敵に囲まれてしまい絶体絶命の大ピンチに陥りました。それを見た景綱、すかさず自らを政宗だと大声で名乗り、敵を引きつけて政宗を逃がしたのでした。自分の命など顧みない、まさに部下の鑑ですね。
武将としても参謀としても有能だった景綱は、豊臣秀吉にも高く評価されていました。秀吉は直臣に招こうと5万石の領地を提示したほどでしたが、景綱は政宗への忠誠を理由にこれを固辞したということです。
生涯政宗にその身を捧げ続けた景綱。彼が亡くなると、政宗の落胆は深く、3日間誰にも会わなかったそうですよ。
2人の強い絆は今も残っています。仙台市にある青葉神社は伊達政宗を祭神とし、現在は片倉景綱の子孫が宮司をつとめているのです。青葉神社神輿や、伊達家の武者行列が行われる「仙台・青葉まつり」が、5月20日(土)21日(日)に開催されますので、この機会に訪ねてみてはいかがでしょうか。
「仙台・青葉まつり」
今年は「藩祖伊達政宗公誕生450年祭」として開催。
http://www.aoba-matsuri.com/index.html
実に過ぎたる部下!石田三成と島左近
「三成に 過ぎたるものが 二つあり 島の左近と佐和山の城」と言われたように、島左近は石田三成にはもったいない部下だったとされています。
三成は左近を迎えるために何度も訪問し(三国志の「三顧の礼」と同じ)、自分の俸禄の2分の1(3分の1とも)を彼に与えたというエピソードがあるほど、左近を大事に扱っていました。
三国志において、劉備に三顧の礼で迎えられた諸葛亮が、どんなに不利な状況になっても決して劉備を裏切ることはなかったのと同様、左近もまた三成に忠誠を尽くしました。彼の献策は三成に容れられないことが多かったのですが、それでも彼は三成を見捨てなかったのです。
左近にとって、三成は終生の主君だったことを示す逸話があります。
三成が佐和山24万石の大名となり左近にも加増しようすると、彼は固辞し、「例え殿が50万石になっても、私は今のままの俸禄で構いません。他の者たちへ分けてやって下さい」と言ったそうです。
与えられる俸禄など問題ではなく、ずっと三成についていこうと左近が決心していたことがわかりますよね。
死んでもなお主を思う…上杉景勝と直江兼続
2016年大河ドラマ「真田丸」で大人気となった上杉景勝と直江兼続の主従ですが、兼続はいつも先回りをして景勝を導いていました。しかし、上杉家は米沢に移封されて石高も大幅に減ってしまったため、しばらくの間、兼続は上杉家をピンチに陥れた奸臣だとみなされてしまっていたのです。
兼続は後継ぎに恵まれず家が断絶してしまったのですが、これには兼続がわざと家を絶えさせたという見方もあります。
減移封のため財政が苦しくなった主君のため、高い俸禄の直江家を絶えさせたといわれているのです。また、婿養子に迎えた本多政重が加賀藩へと入った際に家臣を引き連れていったため、リストラが円満にできたという説もあるんです。
常に景勝の考えを読み、先回りして提案をしてきた兼続なら、こうした考えがあったかも・・・と思ってしまいますね。
戦国時代の名主従には、利害や自分の命を度外視した信頼関係が築かれていました。きっと、この条件は必須ですよね?
皆さんの思う一番の主従コンビは誰でしょうか。
(xiao)
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