【近代女性のあゆみ】日本初の女性医師・荻野吟子の生涯

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【近代女性のあゆみ】日本初の女性医師・荻野吟子の生涯

平成が終わろうとしている今、政府主導による「女性活躍」の推進やジェンダーへの意識の高まりによって、女性たちはさまざまな職業に活躍の場を広げつつあります。しかし、まだまだ問題は山積しています。しかし、明治、大正、そして昭和の女性たちの苦労はいまよりさらに大変なものでした。このシリーズでは近代に活躍した女性を取り上げ、パイオニアとなったその人生を追ってゆきます。第1回は「日本初の女性医師」、荻野吟子(おぎの・ぎんこ)の足取りを探ります。

「オランダおいね」というさきがけ

西洋医学を学んだ楠本イネ

昨今、女子学生の入試差別で揺れている医学部。ですが、もともと日本では「女性の医師はありえない」と思われていました。しかし、江戸時代には西洋医学を学んだ女性が数人登場しました。その一人が楠本イネ。彼女は1827(文政10)年に長崎で遊女とドイツ人の医師との間に生まれた私生児で、父は彼女が2歳の時にオランダ語翻訳資料の国外持ち出しを咎められて、日本国外に追放されてしまいます。父の名前はシーボルト。長崎の出島に鳴滝塾を開設し、高野長英らに西洋医学を教えたことで有名な人物です。

イネは父の門下生に西洋医学を学び、のちに再来日を許された父との再会を果たしました。医術を学ぶ女性がほとんどいなかった江戸時代にイネの存在は異色で、特筆すべきものです。彼女は長崎で育った後、各地に居を移しますが、19歳からの6年間は備前国(現在の岡山市)で過ごしました。「オランダおいね」と呼ばれた彼女の住居があった通りは現在「オランダ通り」と名付けられ、イネの存在を後世に伝えています。

恥ずかしさが医師の道へと向かわせた

現在の順天堂医院

イネの誕生から四半世紀のち、1851(嘉永4)年に荻野吟子は武蔵国幡羅郡(現在の埼玉県熊谷市)に名主の末娘として生まれました。名前の吟子は本名ではなく、戸籍上は「ぎん」という名前でした。1867(慶応3)年、まだ若い吟子は稲村寛一郎という男と結婚しましたが、数年後に夫から淋病をうつされた挙句、離縁されてしまいます。当時、淋病は不治の病と考えられていたのです。

治療のため、吟子は東京にある順天堂医院の婦人科に行きました。そこにいた医師はすべて男性。下半身を男性たちにさらすという恥ずかしさに耐えての治療でした。当時は女性医師の制度が存在していなかったのです。吟子は決意します。「これからの女性たちに自分と同じ苦しさ(恥ずかしさ)を与えてはならない」。自ら医師になることを決意して1873(明治6)年に上京して井上頼圀(いのうえ・よりくに)という医師の塾に入り、のちに東京女子師範学校(現在のお茶の水女子大学)に通って首席で卒業しました。

しかし、師範学校を卒業しただけでは医師になることはできません。医学校に通って医術を学び、資格を取ることが必要なためです。吟子は「受け入れ先がないことくらいであきらめてはならない」と必死で女性医師の必要性を訴えました。その結果、1879(明治12)年にようやく現在の秋葉原にあった私立の医学校・好寿院に入学を許可されたのでした。好寿院に通っている間、吟子は袴に高下駄という男子学生と同じ装いだったといいます。そうまでしても吟子は医学を学びたいという意思を曲げなかったのです。ここでの3年間、彼女は勉学に励み、優秀な成績を残しました。

成績優秀なのに医師になれない!?

女性の医術開業試験を認めた長与専斎

それでもまだ吟子は医師になることができませんでした。「前例がない」のがその理由で、東京都に提出した「医術開業試験願」は2年連続で却下され、埼玉県からも拒まれました。

吟子は「思うに余は生てより斯の如く窮せしことはあらざりき(おもえば、わたしはうまれてこのかた、こんなに困ったことはなかった)」と絶望を綴り、外国での資格取得も考えました。そんな吟子を救ったのが、「高島易断」などで有名な高島嘉右衛門(たかしま・かえもん)でした。彼は井上頼圀に依頼して衛生局局長の長与専斎(ながよ・せんさい)に彼女を紹介しています。また、軍医の制度を確立したことで知られ、日本赤十字社の社長などをつとめた石黒忠悳(いしぐろ・ただのり)も吟子の頼みを受けて「女が医者になってはいけないなら、そう書いておくべきだ」と衛生局に抗議したといいます。真摯に努力を続ける吟子を、周りの人たちは放っておかなかったのです。

こうして、長与衛生局長は「学力があるのだから受験を許可しよう」という考えになり、1884(明治17)年、ついに9月に行われる開業試験の前期試験を受けることができました。この時、ほかにも3人の女性受験者がいましたが、合格したのは吟子だけでした。そして翌年3月の後期試験にも合格。ついに東京・湯島に診療所「産婦人科荻野医院」を開業します。この時、医師を目指してからすでに15年の月日が過ぎていました。開業当初は「女性に務まるのか」と陰口をたたかれることもありましたが、「女医第一号」と新聞や雑誌で評判になったことで、湯島の診療所はすぐに手狭になり、翌年には下谷に移転しています。

年下の夫と再婚 北海道へ渡る

現在の北海道せたな町

努力が報われてようやく医師になり、医療の道を邁進していた吟子。1886(明治19)年、縁あってキリスト教の洗礼を受けました。さらに1890(明治23)年には、新島襄から洗礼を受けていた同志社の学生で、13歳年下の志方之善(しかた・ゆきよし)と再婚しました。この時吟子は39歳。年の差などから周囲に反対する人が多くいましたが、医師を目指した時と同じ強い気持ちを貫きました。吟子らしい再婚だったといえるでしょう。

しかし、之善は理想郷を求め、吟子を残して北海道へと渡ってしまいます。鉱山の開発などをもくろみますが失敗が続きました。一旦北海道を離れたこともありますが、なんとか自己の理想を実現せんと試みを続けます。しかし、いずれもうまくゆきませんでした。1896(明治29)年、之善が北海道へと旅立って5年、ついに吟子も北海道へと居を移すことになりました。

1897(明治30)年、事業に見切りをつけた之善は伝道に専念し、吟子は瀬棚(現・せたな町)で診療所を開業しました。しかし、この診療所は長くは続きませんでした。1903(明治36)年に之善は同志社に再入学するために京都に赴き、吟子は札幌市に転居します。二人の生活はすれちがい、なかなか落ち着きません。翌年、之善は牧師として北海道浦河教会に赴任し、さらにその翌年にはその職を辞して瀬棚に戻ってきます。ようやく二人の時間が訪れたその年1905(明治38)年の9月、病により之善は帰らぬ人となりました。たった一人になった吟子でしたが、その後もその地で3年ほど診療を続けました。医師の仕事に邁進することが、吟子のキリスト信者としての使命だったのかもしれません。

1908(明治41)年、年老いてきた身体に北の土地は厳しいだろうという姉のすすめもあって、吟子は東京に戻ります。そして本所区小梅町で最後となる医院を開業して変わらず診療を続けました。そして数年後、63歳の吟子は肋膜炎にかかり、脳溢血にもなってその生涯を閉じました。1913(大正2)年のことでした。

「女性第一号」になることの厳しさ

晩年の荻野吟子

荻野吟子は、資格を持った日本で最初の女性医師として後世に名を残すこととなりました。彼女は15年もの年月をかけてようやく認められて医院を開業した後、場所を移しながら晩年まで診療を続けましたが、画期的な治療法や見過ごされていた病気を発見したわけではありません。自分の経験を他の女性にさせないためにと、必死に患者と向き合ってきただけです。しかし、女性が医師になることが公には認められていなかった当時、周囲の助けもあったとはいえ、自ら道を切り開いたパイオニアとして、吟子は偉大な功績を残したといえます。

北海道せたな町には荻野吟子公園があり、荻野吟子顕彰碑が建てられています。また、「荻野吟子 開業の地碑」や「瀬棚郷土館」において、漢書の遺品や貴重な資料が展示保存されています。出生地である熊谷市にも荻野吟子記念館があり、荻野吟子をしのぶことができます。さらに雑司ヶ谷霊園には荻野吟子の墓碑と洋装の吟子像があるなど、各地に吟子をたたえる施設が存在していることは、彼女がそれだけ慕われる医師だったことを表しているのではないでしょうか。

荻野吟子は女性の医学への道を開きました。しかし、閉ざされている門を開いて先へと進むことに性別は関係ありません。何かに迷っている時、吟子の強い意思を思い出せば、自然と力が湧いてくるような気がします。

<参考サイト>
日本人女医第1号荻野吟子(せたな町)
荻野吟子(熊谷市)
熊谷市立荻野吟子記念館

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