老若男女問わずファンの多い「三国志」。
読み進めていくにつれて、「軍師」として現れる人物が物語全体に大きな影響を与えていきます。
劉備における諸葛亮、孫権における周瑜などは、「三国志」を読んだことのある人ならば誰しも耳にするでしょう。
しかし、曹操とて軍師がいなかったわけではありません。それどころか、曹操を華北の覇者へと仕立て上げた名軍師が存在したのです。
その名は「荀彧(じゅんいく)」。漫画やアニメの「蒼天航路」で彼を知った方は多いのではないでしょうか。今回はその「荀彧」についてご紹介いたします。
荀彧と曹操との出会い
荀彧は、曹操に出会う前から清廉潔白を旨とした清流派知識人の出身で、若いながらも名士として頭角を現していました。董卓の専横著しかった時期に、荀彧は戦乱を避けて一族を引き連れ、袁紹のもとに身を寄せます。しかし、袁紹の優柔不断な態度を見て取り、彼に見切りをつけて曹操のもとへ移ったのです。
その時荀彧は29歳の若さでありながら、曹操は「我が子房なり」と大喜びで歓待しました。
(子房…前漢の高祖である劉邦の名軍師と言われた張良の字)
荀彧が曹操のもとに居ついたのは、曹操が反宦官派としての立場を鮮明にしていたからでしょう。宦官を批判する荀彧にとって曹操は頼みがいのある存在だったのです。
また、曹操のほうでも、荀彧の紹介によって荀攸や郭嘉など曹操軍のブレーンとなる人材を手に入れることができたのです。
奇跡の大勝利を収めた「官渡の戦い」
「董卓の乱」以降、曹操は荀彧の献策に従い、当時各地を流転していた「献帝」を迎え、後見人としてその立場を強力にしていきました。
皇帝という錦の御旗を手に入れた曹操の権勢は、ほかの群雄に著しい差をつけたのです。
建安5(200)年、曹操は嫌悪の中になっていた袁紹と一大決戦を行いました。
しかし、相手は自軍の10倍もの軍事力を持っていたためなかなか手が出せず、食糧不足に頭を悩ませます。
曹操は後方に残っていた荀彧に手紙を書き、撤退したいと弱音を吐きます。
しかし荀彧は、「此れ奇策を用うるの時、失うべからず」(今こそ奇策を用いるときです。この機を逃してはなりません)と曹操に激励の言葉を投げかけます。
気を取り直した曹操は、袁紹軍の食糧庫に奇襲攻撃を仕掛けたのを先制に、慌てふためいた袁紹軍をこっぱみじんに打ち破り、奇跡の大勝利を収めたのです。
もしこれが諸葛亮でしたら、どのような策を採っていたでしょうか。「赤壁の戦い」のように天候を見極め、風を呼び、天の神を味方につけたように見せかけて敵の兵士たちを怖れさせたことでしょう。
曹操との決別
しかし「官渡の戦い」以降、曹操と荀彧の仲はこじれてきました。
実際に、曹操が大敗北を喫した「赤壁の戦い」以降、荀彧の記述は正史「三国志」にも数年存在していません。
次に荀彧の記述が出てきたのは、曹操が皇帝の座を視野に入れた魏公を名乗ろうとするところです。
皇帝を盛り立てる思想を持った荀彧は大反対しましたが、曹操の不興を買って服毒自殺をするまで追い詰められてしまうのです。しかし、荀彧の功績は「魏」の礎を築いたといっても過言ではありません。
荀彧は正直に言って世間一般に有名な軍師ではありません。しかし、その功績なくして曹操の出世はあり得ませんでした。
また、荀彧も人を見る目があり、袁紹ではなく曹操についたため名をあげることができたのです。
荀彧の身の振り方は、現代社会のサラリーマンにも似ているところがありますね。
参謀として上司や社長に的確な提案をし、諫めるべき場面では例たとえ目上であっても諫言する、ということが上の言いなりになりやすいサラリーマン社会に必要なのではないでしょうか。
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