歴史人の偉大なる業績の中には内助の功がつきものです。
三国志において天才と謳われた蜀の軍師、諸葛亮孔明の妻も大いなる内助の功を尽くしたとされています。
彼女は当時の名士であった黄承彦の娘で「黄夫人」と呼ばれていました。
彼女は醜女であったため、人々は彼女を嫁に迎えようとはしなかったのです。
そんな彼女をどうして孔明は迎え入れることにしたのでしょうか。
才知あふれる醜女
孔明が黄夫人を娶るきっかけになったのは、孔明が嫁さがしをしているという噂を聞きつけた黄承彦の薦めによるものです。
しかし、肝心の嫁は赤毛で色黒の娘であり、類まれなる醜女であるとの評判でした。
黄承彦は、「赤毛で色黒の娘ではあるが、才知のほうは君にぴったりだ」と告げ、孔明も承知したので娘は孔明の妻として支えることになったのです。
このことは当時の人々の笑いの的となり、「孔明の嫁選びを真似るなかれ、阿承(黄承彦)の醜い娘をもらう羽目になるぞ」などという風評が流れたそうです。
しかし、孔明はそのことを恥じたり、情けないと思ったりしたことはありませんでした。
それどころか妻の才知や手先の器用さに驚いていたのです。
民間伝承によると、黄夫人は木偶人形を制作してうどんを作ってすぐに客人に出せるようにしたとか、後の孔明が北伐において食糧運搬のために作った「木牛流馬」の設計も黄夫人のものであったと伝わっています。
人々もこの話を聞き、「美女か醜女か」ということわざができたのです。
孔明夫婦の仲は良好だった
孔明のもとに嫁いだ黄夫人は、体が丈夫で手先が器用だったので、力仕事から細々とした仕事までこなすことができました。
それだけではなく、知性と慧眼を兼ね備えており、毎夜孔明と飽きることなく歓談することができたのです。
孔明が「三顧の礼」を受けて劉備のもとに赴いたあとでも、黄夫人を大事にし、糟糠の妻を捨てるようなまねはしませんでした。
しかし、良好な夫婦仲は長く続くものの、なかなか子供には恵まれませんでした。
そのあと兄の諸葛僅から養子をもらうところはなんとなく太閤豊臣秀吉と「ねね」の夫婦に似ていますね。
黄夫人は美人な異国人だった?
また、黄夫人はじつは異国人だったのではないかという意見も出てきているのです。
黄夫人が本当に醜かったのかは当時と現代の感覚とはずれているところがあるので、断定はできません。
また、三国志蜀書の諸葛亮伝においては容姿の記載がされているのは「赤毛で色黒の娘」という部分ぐらいです。
しかし、当時の美的感覚からいっても、赤毛で色黒はかなり珍しいのではないでしょうか。
少なくとも、漢人の一般的な容姿からはかけ離れていて実際には相当な美人であったことも大いに考えられます。
そうなると、黄夫人は黄承彦の実の娘ではなく、養子としてもらわれてきた外国人なのではないかという推測もできます。
そうだとするととてもロマンチックですよね。
このように、天才軍師と呼ばれている諸葛亮孔明でも内助の功は欠かせません。
現代のサラリーマン社会でも、陰ながらの内助の功は大きく貢献されるでしょう。
今は昔のようにお見合いの時代ではないため、なおさら自分の力でよき伴侶を見つけなければなりません。
今は「婚活パーティー」などがあって出会いはたくさんありますよね?
ただ外見が美しいからと安易に結婚して実は性格が悪く、自分の夢や仕事に興味を示さないなんてことにならないようにしたいですね。
逆に、人々から容姿の評判が悪くても、話してみれば才色溢れる人物だったということもよくあります。
「美女か醜女か」…この言は男女問わずどんなひとでも考えさせられる故事ですよね。
画像提供:
三国志対戦カードゲーム「サンゴク」リトルフューチャー
(黄夫人はちゃんと赤毛になってる!このゲームのキャラは全部カワイイですw)
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