【歴史に刻まれた悪行】怖すぎる悪女たちの世界史

世界史
【歴史に刻まれた悪行】怖すぎる悪女たちの世界史

日本の悪女といえば北条政子や淀殿、日野富子などの名前が知られていますよね。一方、世界でもクレオパトラやエリザベス一世など絶大な権力を得ていた人物や、英雄とされるジャンヌ・ダルクなど様々な女性が悪女として歴史に名を残しています。

今回は、世界史に名を残す悪女と呼ばれる女性たちの中から3人をピックアップして、その人生と罪についてご紹介していきます。

血の伯爵夫人の異名を持つエリザベート・バートリー

「血の伯爵夫人」という異名を持つエリザベート・バートリー。彼女はポーランド王を伯父に持つハンガリーの名門貴族に生まれ、15才の時に5才年上のハンガリー貴族と結婚、やがて6人の子供の母になりました。残された肖像画を見てもエリザベートは非常に美しい女性であることがわかります。また、当時の貴族の女性としては教養が高く、夫が出征中はエリザベートが領土を治めていたという逸話も残っています。
しかし度重なる血族結婚の影響か、エリザベートの一族には残虐で色欲の強い人物が多く、エリザベートも多分にその影響を受けていました。

夫の在世時から、彼女の残虐な行いは人々の噂になることもありましたが、本領を発揮し始めるのは1604年、夫を失った年からでした。44才で未亡人となったエリザベートは、侍女への拷問、残虐行為、さらには自分の若さと美しさを保つために多くの処女の血を欲し、殺害行為を繰り返します。1611年に多くの罪で裁判にかけられた彼女は、1614年に牢内で54才の人生を終えました。

エリザベート・バートリーの肖像画
エリザベート・バートリーの肖像画。美女であったことが伺えます。

 

エリザベートの犯した罪

残虐性と色欲が強かった一族の血を受けつぐエリザベートは夫の在世中から愛人が多く、また侍女たちにも暴力をふるうことが多かったと伝えられています。

夫の死後、その残虐性に拍車がかかり、侍女ばかりではなく領民の娘を誘拐して殺害したり、下級貴族の娘を場内に招き入れて、指を切断したりするなどの異常な行為が目立つようになります。若い娘たちの苦痛を眺めることを好んだり、女性たちの乳房や性器に異常な執着を示して切断したりしたという証言もあります。

1611年に逮捕、裁判にかけられたエリザベートは、650人に暴行を働いたと告白しています。女性たちの血を収集して入浴したり、その肉を食したりという当時の人々の証言から、吸血鬼と同化する伝説が生まれました。
現在の精神科学の分野では、エリザベートが異常性欲者の持ち主であったと主張する専門家もいます。

新教派を大量虐殺したカトリーヌ・ド・メディシス

新旧の教会勢力がぶつかった16世紀のフランスで、権力欲にかられ大虐殺を行ったカトリーヌ・ド・メディシス。彼女は、花の都と呼ばれたイタリアはフィレンツェの実力者メディチ家の出身です。メディチ家の当主となった父とフランス貴族を母に持つ彼女は、幼くして両親を失い、メディチ家出身の法王の庇護のもとに成長します。

14才のとき、フランス王であるフランソワ一世の次男アンリと結婚します。しかしアンリは当時20才も年上のディアーヌ・ド・ポワチエを熱愛しており、カトリーヌは生涯形だけの妻であったといいます。アンリ国王が亡くなり40才で未亡人となったカトリーヌは、次々にフランス王位を継ぐ子供たちの権力維持のために奔走します。そんな中、プロテスタントの勢力を抑止するために起こしたのが「サン・バルテルミの大虐殺」でした。

しかし彼女の努力は報われず、国王となった3人の息子たちは次々に若くして死亡。カトリーヌは孤独のうちに死を迎えました。

カトリーヌ・ド・メディシスの肖像画
カトリーヌ・ド・メディシスの肖像画。優美な面差しからは想像もできない大虐殺を……。

 

カトリーヌの大罪とは

カトリーヌは同じカトリック強硬派のギーズ公と共謀し、勢力を増してきているプロテスタント派を弾圧することを画策していました。彼女はプロテスタントとカトリックの融和を図るためと称し、プロテスタント派の指導者であるナバラ王アンリと自分の末娘のマルグリットとの結婚を提案します。この結婚祝いのためにパリには多数のプロテスタント派の貴族たちが集結し、その中には、プロテスタント派の指導者コリー二提督の姿もありました。

1572年8月24日サン・バルテルミの祝日に、コリーニ提督をギーズ公の兵により暗殺。更にシャルル9世の命により、宮廷にいたプロテスタント派の貴族を多数殺害しました。この虐殺は宮廷内にとどまらず、市内や地方でもプロテスタント派の市民が襲撃され、犠牲者数は1~3万人にのぼるとされています。
この「サン・バルテルミの大虐殺」は、カトリックの総本山ローマ法王庁さえも震撼させた大スキャンダルとなり、カトリーヌの悪名は後世まで残ることになりました。

魔女と呼ばれたラ・ヴォワザン

ラ・ヴォワサンは、フランスの太陽王ルイ十四世時代に「魔女」と呼ばれていた人物です。フランスの中流階級に属していたラ・ヴォワサンは、宝石商を営む夫と娘3人を持つ女性でありながら、媚薬や毒薬の発明や販売で大もうけをしていました。また弁も立ち、彼女の行いに疑いを持った司祭に対しても、パリ大学の教授たちを味方につけて自己弁護に成功した記録も残っています。

1679年に、同業の毒薬販売者の自白からラ・ヴォワサンの名前が上がり、彼女も逮捕されます。ラ・ヴォワサン本人の自白から、フランス上流階級の恐ろしい数にのぼる顧客の名が知られることとなり、1680年に火刑という最期を遂げました。

ラ・ヴォワザンの肖像画
ラ・ヴォワザンの禍々しいイメージが再現されています。

ヴォワザンの怖すぎる所業

ラ・ヴォワサンは、毒薬、媚薬、胎児薬を販売するだけではなく、呪いの儀式である「黒ミサ」を行っていたことで有名です。

キリスト教会が異端としてこれらの儀式を行う人を弾圧していたにもかかわらず、黒ミサはヨーロッパで横行しました。フランス王妃カトリーヌ・ド・メディシスも、病弱な長男のために黒ミサを行わせたという記録が残っています。ラ・ヴォワサンは、ルイ十四世の愛妾モンテスパン夫人の依頼で彼女のライバルの死を祈祷したり、ルイ十四世の暗殺まで企てたりと、さまざまな事件の裏で暗躍していたといわれています。

この黒ミサのために犠牲になった命の数は、証拠が残っておらずはっきりとしていません。伝説では、1000人から2500人を殺害したともいわれ、巨万の富を築いたラ・ヴォワサンの派手な乱費ぶりも当時の上流社会を騒がせたそうです。
彼女は最期までキリスト教徒としての罪の告白を拒み、自身の正当性を疑わず処刑になりました。

残虐性は後世に語り継がれる

世界史に悪名を残した女たちの所業は、小説家や芸術家の作品・名画のネタにもされてきました。戦場で血を流す男性たちと違い、女性たちの戦いは陰湿でより残虐かもしれません。

ここにご紹介した3人以外にも、世界史・日本史には数多くの悪女が存在します。歴史に名を残す悪女について、ぜひ調べてみてはいかがでしょうか。

 

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