【世界三大美女:楊貴妃】「傾国の美女」が遂げた悲劇の最期と逸話

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【世界三大美女:楊貴妃】「傾国の美女」が遂げた悲劇の最期と逸話

クレオパトラ、小野小町にならび「世界三大美女」の一人とされる楊貴妃。彼女は玄宗皇帝から寵愛を受けましたが、その美貌ゆえに皇帝が政治を顧みなくなったことから「傾国の美女」ともいわれています。歴史上では悪女との見方もあるようですが、果たして彼女は本当に性悪な女性だったのでしょうか?

今回は、楊貴妃の生い立ち、その最期と生存説、楊貴妃にまつわるエピソードなどについてご紹介します。

楊貴妃の生い立ち

楊貴妃はどのような出自だったのでしょうか?うまれから妃になるまでについて振り返ります。

幼くして両親を亡くす

楊貴妃は、開元7年(719)蜀州司戸の楊玄琰の4女としてうまれました。姓は楊、名は玉環(ぎょくかん)です。父・楊玄琰が蜀州の司戸参軍在任中にうまれ、幼いころに両親を失ったため叔父・楊玄璬に養育されたと伝えられています。楊玄璬は唐の役人だったことから、楊貴妃は教育を受けて育ったと考えられるでしょう。

『定命録』によれば、山野に住む隠士が「この娘は将来、皇后と同等の尊貴になるだろう」と予言したという説話が残されています。また、うまれながら玉環を持っていたためその名がつけられたといった俗説もあるようです。

寿王の妃から女冠へ

開元23年(735)、唐の第6代皇帝・玄宗と武恵妃(ぶけいひ)のあいだにうまれた第18子、寿王・李瑁(りぼう)の后として楊貴妃が選ばれます。寿王は謙虚で素直な好青年で、楊貴妃とは美男美女のカップルだったようです。若くして寿王の妻となった楊貴妃でしたが、その後、長安の宮殿である騒動が起こります。当時玄宗から寵愛を受けていた武恵妃が、自分の息子を皇太子にしようと画策したのです。玄宗は寿王を皇太子にはせず、皇太子を含め3人の息子も殺してしまいました。望みが叶わなくなった武恵妃は、殺された皇太子たちの祟りを恐れながら病没。武恵妃を愛していた玄宗は、もぬけの殻のようになりました。

しかし、華清池という温泉地への旅行に楊貴妃と同行したことがきっかけで、玄帝は楊貴妃に心を奪われてしまいます。開元28年(740)、玄宗に見初められた楊貴妃は一時的に女冠(女道士)となり、その後は玄宗の後宮に入り皇后と同じ扱いを受けました。二人はすでに内縁関係だったといわれていますが、玄宗が息子から妻を奪う形になるのを避けるために女冠を経たようです。

貴妃となり玄宗に寵愛される

唐の第6代皇帝・玄宗の肖像です。

天宝4年(745)、「貴妃」の地位を得た楊貴妃は、玄宗が外出する際には必ずつき従うようになりました。楊貴妃には絹織りや装飾品の工人がそれぞれ数百人もついており、門前には出世のためにさまざまな献上物を贈ろうとする地方官の使者の列ができたといいます。また楊一族は高い地位を与えられ、従兄の楊錡は玄宗の愛娘・太華公主と結婚。従兄や3人の姉たちは権勢を振るうようになり、楊一族への対応はまるで天子に対するもののようになりました。

天宝7載(748)には3人の姉も国夫人となって毎月多額の化粧代を与えられ、従兄の楊国忠(ようこくちゅう)は御史中丞に昇進するなど外戚としての地位を固めていきます。

楊貴妃の最期と生存説

皇帝の寵愛を受けた楊貴妃は、悲しい結末を迎えます。彼女の最期はどのようなものだったのでしょうか?

安史の乱が勃発!

反乱を起こした安禄山の肖像です。

玄宗は善政を敷いたことから「開元の治」と称えられ、唐王朝は絶頂期を迎えていました。しかし、武恵妃を失ったころから玄宗の情熱は薄れ、楊貴妃を溺愛してからは政治が緩み始めていたのです。そんな玄宗に代わって政治を執ったのは宰相・李林甫で、彼の死後は安禄山(あんろくざん)と楊国忠が権力を握りました。ところが、楊一族の横暴が激化し、専横を行った楊国忠は外征に失敗して大勢の死者を出します。やがて安禄山と楊国忠は対立するようになり、楊国忠は安禄山の排除を画策。これにより天宝14年(755)安禄山は反乱を起こし、楊一族の排除を掲げて挙兵しました。

夫・玄宗に殺されこの世を去る

乱の鎮圧に派遣した軍勢が敗れ、安禄山軍が首都・長安に迫ると、玄宗は楊貴妃・楊国忠・高力士らとともに蜀へと逃亡します。しかしその途上、反乱の原因となった楊一族に恨みを向けた兵士たちが暴徒化して楊国忠が殺害されました。さらに兵士たちは、玄宗に対して楊貴妃の殺害を要求します。玄宗は楊貴妃をかばいましたが、高力士の進言により仕方なく彼女を殺すよう命令しました。その後、玄宗は長安に帰還したもののすでに権力はなく軟禁に近い状態となります。玄宗は秘密裏に楊貴妃の改葬(供養)をし、画家に彼女の絵を描かせて朝夕眺めたそうです。この玄宗と楊貴妃の逃避行は長編漢詩作品『長恨歌』によって広まり、平安時代の日本の貴族たちも愛読したといわれています。

実は日本に渡っていた!?

逃避行の末に亡くなった楊貴妃ですが、彼女には生存説も残されています。その説によれば、蘇生した楊貴妃は遣唐使の船に乗り密かに日本に渡ったというのです。山口県長門市の二尊院には、楊貴妃が小舟に乗って流れてきたという伝説が残されており、楊貴妃の墓という五重塔も建てられています。

楊貴妃にまつわるエピソード

楊貴妃にはさまざまな伝承が残されています。ここでは彼女にまつわるエピソードをご紹介します。

楊貴妃の容貌とは?

静嘉堂文庫美術館所蔵の楊貴妃の掛軸です。

世界三大美女とされる楊貴妃はずば抜けた容姿の持ち主だったようで、「髪は艶やかで、肌はきめ細か、体型はほどよく、物腰が柔らか」と伝えられています。玄宗は彼女を手に入れてからというもの、他の女性に見向きもしなかったそうです。また、楊貴妃は西施(せいし)、王昭君(おうしょうくん)、貂蝉(ちょうせん)と並んで中国四大美女とされており、彼女たちを表す「沈魚落雁 閉月羞花(ちんぎょらくがん へいげつしゅうか)」という言葉のなかで、「後宮の庭の花に触れると、その美貌と香気に花も恥じらい頭を垂れた」と表現されています。

実は太めの美女だった?

当時の中国では満足に食べられない人も多かったことから、ふっくらしていたほうが美人とされました。すぐれた容姿をもつ美人を指す「環肥燕痩(かんぴえんそう)」という言葉は、「太った楊貴妃、痩せた趙飛燕(漢の成帝の妃)」という意味で、「環肥」は楊貴妃を指しています。彼女は自分の体型を気にしていたのか、玄宗から豊満さをからかわれた際はすっかり機嫌を損ね、玄宗は慌てて贈り物をしたそうです。

音楽の才能に溢れていた

楊貴妃は聡明で音楽の才能にも恵まれており、玄宗が彼女のために作曲した「霓裳羽衣の曲(げいしょうういのきょく)」に合わせて美しく舞ったといわれています。また、打楽器の一種・磬(けい)の名手でもあり、演奏家ですらかなう者がいなかったそうです。

好物は果物のライチ

玄宗から寵愛を受けていたころ、楊貴妃は南方から特急でライチを取り寄せて食べていたという逸話が残されています。容姿にも才能にも恵まれた彼女の大好物がライチとは、少し意外かもしれません。貴妃のワガママとしては、ささやかなものだったといえるでしょう。現在ではライチを使った「楊貴妃」というカクテルも存在しています。

美しき悲劇の女性

楊貴妃はその美貌から皇帝を虜にし、世界三大美女としても歴史に名を刻みました。あまりの美しさに「傾国の美女」といわれる彼女ですが、政治に口を出したり玄宗を操ったりということはなかったようです。しかし、楊一族が分不相応で尊大な態度をとったことから、楊貴妃がその責任を一手に負わされたといえるでしょう。実際の楊貴妃は「悲劇の美女」というほうがしっくりくるかもしれませんね。

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