日野富子と言えば、室町幕府8代将軍足利義政の正室であり、稀代の悪妻だったというのが後世に伝わる評です。日本三大悪女(他は北条政子と淀殿)の一人にも数えられています。しかし、彼女はどうして悪女と呼ばれているのでしょうか。彼女の生涯を通して、その理由を検証してみましょう。
名門・日野家の娘として生まれ、将軍足利義政に嫁ぐ
永享12(1440)年に藤原氏につながる名門・日野家に生まれた富子は、16歳で8代将軍・義政に嫁ぎました。ちなみに義政の母・重子も日野家出身で、富子の大叔母に当たります。
3年後には富子と義政の間に待望の第1子が産まれますが、すぐに亡くなってしまいました。すると、これを義政の乳母(愛人説もアリ)である今参局の呪いのせいだとして、今参局を島流しに。ついでに義政の側室4人も追放しちゃいます。
『応仁の乱』勃発、実は富子が原因!?
富子にはなかなか男子が生まれませんでした。そこで、義政の実弟で僧侶だった義視を還俗させて後継者に据えることとしたのです。
ところがその翌年、なんと富子は男児を出産しました。義尚と名付けたこの息子こそ将軍にしたいと富子は思うようになり、後見を有力守護大名の山名宗全に頼みます。
対する義視の後ろには、同じく守護大名の細川勝元が付いていました。将軍の後継と守護大名の争いが絡み合った結果、応仁元(1467)年、応仁の乱が勃発します。10年続いたこの乱は、京都を焼け野原に変えてしまいました。
その間富子は何をしていたかというと、宗全側に付きながらもなんと両軍に金銭や米を貸し付けていたのです。
乱の一因に関与していながら私腹を肥やしたとして、人々の反感を買いました。この時に稼いだ資産はなんと現在のお金に換算すると60億円にも達すると言われています。
元々政治にそれほど興味のなかった文化人・義政と富子の仲は冷え切っていました。そのためか、富子と土御門天皇の密通の噂まで出るほどでした。文明5(1473)年に宗全と勝元が相次いで病没すると、義政は将軍職を義尚に譲り、やがて富子と別居します。
この後にあの有名な銀閣寺(慈照寺)の建設に取り掛かるのです。
将軍を次々とすげ替え、実権を握る富子
富子の蓄財は乱の間も続いていました。京の出入口に関所を設けて関税を取ったのです。本来なら内裏の修復や祭礼に使われるはずのその金を、富子が自分の懐に入れているとみなした民衆が一揆を起こすほどでした。
一方、将軍となった息子・義尚は酒食に溺れて政務を顧みず、富子を疎んじるようになり、やがて延徳元(1489)年に25歳の若さで早逝してしまいます。
悲嘆に暮れた富子ですが、すぐに行動を起こします。次に目を付けたのは、かつて対立した義視と富子の妹の間にできた子・義材でした。
彼を10代将軍につけることに成功しますが、彼もまた富子と対立し意のままにはなりません。
そのため、富子は細川政元(勝元の子)と共謀し、義材の出征中にクーデターを起こします。これが明応の政変です。その後、義政の甥・義澄が11代将軍となり、義尚の死後わずか4年で将軍が2人変わったことから、政局は混乱の一途を辿ります。その裏側には常に富子の意思があったのです。
富子は明応5(1496)年に亡くなりますが、遺産は70億円とも言われました。その後、室町幕府は衰退に向けて加速していったのです。
富子は将軍家で絶大な権力を振るい、京都を荒廃させた戦いの最中に蓄財に励んでいました。それが民衆の不興を買い、やがて後世の悪女評へとつながったのでしょう。
夫の義政がもっとやる気のある男だったなら、あるいは富子は良き妻になれる可能性があったのかもしれません。
不幸であると言えば不幸、しかしやっぱり・・・怖いですね。
(xiao)
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