「武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり」という言葉を聞いたことがある人は多いと思います。これは、佐賀藩士・山本常朝によって口述された武士道書『葉隠』の一説です。「いくさをしない武士がどう生きるべきか」が書かれた『葉隠』には、今を生きるわたしたちにとっても「生きていくヒント」が詰まっています。今日は『葉隠』の面白さと有益さの一端をご案内いたしましょう。
『葉隠』口述者・山本常朝はどんな人?
『葉隠』を口述したのは、山本常朝という佐賀藩士でした。常朝が生まれたのは、江戸幕府が開かれてから50年以上が経った万治2年(1659)のこと。すでに戦国時代を知らない世代です。
常朝が仕えた藩主は佐賀藩・2代藩主の鍋島光茂。常朝は9歳で光茂の小姓となってから、御書物役や書物奉行などをつとめました。今でいうと秘書的な役割で、文書類を主に扱う職務です。
常朝が42歳になった時、光茂が死去しました。常朝は主君の後を追って殉死したいと願いましたが、光茂は殉死を禁じていました。そこで殉死するかわりに出家することを選び、佐賀の山中に草庵を結んだのです。
『葉隠』はどのように生まれたのか?
常朝の隠遁生活が10年を過ぎようとしていた頃、田代陣基(たしろつらもと)という佐賀藩士が草庵を訪れます。佐賀藩で祐筆(文書の管理・作成をする職務)として仕えていた陣基でしたが、御役御免となってしまい、失意のまま常朝のところへやってきたのでした。
常朝より20歳年下の陣基は、常朝の話をいろいろと聞くうちに「これは書き留めておかねば」と思ったのでしょう。常朝の語りを記録することになったのです。常朝は語りに語り尽くして、約6年後に全11巻の『葉隠』が完成します。
毒舌のため?『葉隠』は秘本だった!
6年の歳月をかけて完成した『葉隠』ですが、その冒頭には何と「この書はかならず全部焼き捨てよ」とあります。
この始終十一巻は追つて火中すべし。世上の批判、諸士の邪正、推量、風俗等まで、只自分の後学に覚え居られ候を、噺の儘に書き付け候へば、 他見の末にては意恨悪事にもなるべく候間、 堅く火中仕るべき由、 返す返すも御申し候なり。
(『葉隠』冒頭はしがき)
『葉隠』には、藩士の失態や衆道をめぐるいざこざが、常朝の手厳しいコメント付きで記されているため、「他見の末々にては意恨悪事にもなるべく」(誰かに見られると恨みや憎しみのもとになりかねないので)燃やすようにと常朝は陣基に命じたのですが・・・陣基が書き写しておいた写本は、その後さまざまな人の手で書き写されていき、佐賀藩の中で密かに読まれ続けていったのです。
しかし、「火中すべし」の冒頭語があるためか、本の刊行が盛んだった江戸時代においても『葉隠』が刊行されることはなく、明治39年(1906)に初めて活字化されるまで『葉隠』は秘本として知る人ぞ知る書物でした。
常朝が没したのは『葉隠』が完成してから3年後のことでした。燃やすよう命じた『葉隠』が、後代まで読み継がれるとは思いもしなかったことでしょう。
藩祖・鍋島直茂を猛烈リスペクト!
常朝が仕えたのは光茂ですが、誰よりもリスペクトしていたのは、藩祖・鍋島直茂(光茂の祖父)でした。もちろん、常朝が生まれるずっと以前に亡くなっていますから、会ったことはありません。
しかし、直茂の事績を語る常朝の眼差しはとにかく理屈抜きの尊敬に溢れています。たとえば、直茂が豊臣秀吉の前で生け花をした時の話。
太閤の御前にて、大名衆生花をなされ候。直茂公の御前にも、花入花具出で申し候。終に生花などなされ候儀これなく、御不案内に候て、花具を諸手にて一つに御握り、本を突き揃へられ、花入にそくと御立て差出され候。太閤御覽候て、「花はわろく候へども、立て振りは見事。」と仰せられ候由。
(『葉隠』「聞書第三」7)
生け花などしたことがない直茂が「えいやっ」と花を掴んでグサリと花器に生けたのを見て、秀吉が「格好は良くないが、花の立っているカンジがイイネ」と言ったというのですが・・・あんまり、誉めているのではない雰囲気。直茂を好き過ぎて贔屓の引き倒し、といったところでしょうか。
また、佐賀城に処刑された者の幽霊が出た時の話がこちら。
三の御丸にて密通仕り候者御詮議の上、男女共に御殺しなされ候。その後、幽霊夜毎御内に現れ申し候。御女中衆恐ろしがり、夜に入り候へば外へも出で申さず候。(中略)公聞召され、「さてさて嬉しき事哉。彼者共は首を切り候ても事足らず、憎くき者共にて候。然る處、死に候ても行く所へも行かず、迷ひ廻り候て幽霊になり、苦を受け浮び申さずは嬉しき事なり。成る程久しく幽霊になりて居り候へ。」と仰せられ候。その夜より幽霊出で申さず候由。
(『葉隠』「聞書第三」21)
直茂が幽霊たちに向かって「悪いやつが死んで幽霊になり迷い出て、成仏できずに苦しみ続けているとはまったく嬉しいよ。ずっと幽霊のままでいればいいさ」と言ったところ、ぱったり幽霊が出なくなった、という直茂の剛胆さが伺えるいい話です。
『葉隠』の「聞書第三」には、このような直茂の事績が連綿と並んでいます。ほかの巻にも「直茂様はこう仰っていた」という記述が多く見られ、常朝がいかに直茂を武士の鑑として尊敬していたかがわかります。
赤穂浪士には手厳しかった常朝
江戸城松の廊下で赤穂藩主・浅野内匠頭が吉良上野介に対して刃傷事件を起こしたのは、元禄14年(1701)のことでした。常朝が光茂の死去後に出家してまもなくのことです。
実は常朝は大石内蔵助とは同い年。また、主君の光茂の正室と吉良上野介の正室とは母親違いの姉妹であり、『葉隠』の中には光茂と吉良上野介の会話も記されています。
では、常朝は赤穂浪士の仇討ちをどのように捉えていたのでしょうか。
又浅野殿浪人夜討も、泉岳寺にて腹切らぬが越度なり。又主を討たせて、敵を討つ事延々なり。もしその内に吉良殿病死の時は残念千万なり。上方衆は智慧かしこき故、褒めらるゝ仕様は上手なれども、長崎喧嘩の様に無分別にする事はならぬなり。
(『葉隠』「聞書第一」55)
常朝はまず、赤穂浪士が討ち入り後にすぐ切腹しなかったことにダメ出し。さらに浅野内匠頭の切腹後に長い時間(1年9ヶ月)経ってから討ち入りを決行したことで「もしその間に吉良上野介が病気で死んだりしたら一体どうするんだ」と重ねてダメ出し。
その上で、「上方の武士たちは頭が良いから人に誉められるようなやり方はできても、長崎喧嘩(長崎であった討ち入り事件。深堀事件とも)みたいに思い切ったことができないんだよなぁ」と嫌味たっぷりに語っています。
赤穂浪士たちの討ち入り事件を知った常朝は「自分だったら・・・」と思いを巡らせたのではないでしょうか。この項の末文には「死ぬ迄を考へず無二無三に死狂ひするばかり也」とあります。
常朝の考える武士のあり方のひとつが「無二無三に死狂ひ」。主君・光茂の死去の際に殉死できなかった常朝の無念が辛口コメントの背景にあるのかもしれません。
「武士道と云ふは・・・」の真意とは
『葉隠』でもっとも有名な言葉は「武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり」でしょう。戦時下などにおいてこの文言が闘争心の鼓舞に利用されたことなどから、『葉隠』を「潔く死ぬのが武士というものだ」ということを説く書であると思われがちです。
「武士道と云ふは・・・」の項は『葉隠』の「聞書一」の2つ目にあります。この項の末文は次のようになっています。
毎朝毎夕、改めては死に死に、常住死身になりて居る時は、武道に自由を得、一生越度なく、家職を仕果すべきなり。
(『葉隠』「聞書一」2)
ここに「毎朝毎夕、改めては死に死に」とあるのを見れば、『葉隠』の説く「死」が実際の「死」を意味するのではなく、「死んだ気になること」だと理解できます。それが「常住死身」ということでしょう。いつも「いったん死んだ気で」何事かに臨めば、自由な気持ちになることができて、仕事もうまくゆく、と説くのが「常住死身」ではないでしょうか。この項冒頭の「武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり」と末文にある「常住死身」が呼応しているのです。
武士道の書『葉隠』が、現代の人々にも一種の自己啓発書として愛読されているのは、こうした普遍的な「生きるヒント」を与えてくれるからなのですね。
『葉隠』には「人間の一生はわずかの事なり。好いたことをして暮らすべきなり」とも記されています。堅苦しい武士道の本と敬遠せず、まずは、たくさんある現代語訳などを手にとってみてはいかがでしょう。佐賀藩士たちの生き生きとした姿を楽しむ、というのも『葉隠』の読み方のひとつとしておすすめです。
(こまき)
参考文献
『葉隠』上中下、岩波文庫
小池喜明『葉隠―武士と「奉公」』講談社学術文庫
松永義弘訳『葉隠』教育社新書
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