【 人鬼と呼ばれ… 】肥後に生まれた紅毛碧眼武者、和仁三兄弟の悲話

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【 人鬼と呼ばれ… 】肥後に生まれた紅毛碧眼武者、和仁三兄弟の悲話

肥後の玉名郡和水町の北部、和仁(わに)の里に田中城という戦国期の小城があります。
この城は秀吉による九州支配に端を発した肥後国人一揆において、豊臣政権の大軍勢に攻撃されて全滅するといった波乱の歴史をもちます。そして、この地の国人領主と異国の娘との間に生まれた「人鬼(じんき)」と呼ばれる紅毛碧眼の武将の悲話を伝えています。

戦国領主と南蛮娘との間に生まれ、「人鬼」と呼ばれた混血の若武者

肥後の玉名郡、和仁の領主・和仁氏は古代豪族である和珥(わに)氏の末裔とされる国人。
古くは肥後の菊池氏に属していましたが菊池氏の没落後は豊後の大友宗麟に従います。

戦国、天正期の当主・和仁親続は玉名・筑後の数村を領して田中城(和仁城、鰐城)に拠っていました。
親続には親実、親範、親宗の三人の男子がありました。その中でも、三男の親宗(ちかむね)は身の丈が七尺六寸もある大男で、顔は赤く、目は光り輝き、手足は熊のように力強く、そのうえ動作は機敏であり、その風貌から「人鬼」と呼ばれたと肥後の古記、和仁軍談に記されます。

親宗の母は、南蛮女であったと伝わります。大友宗麟に従属した和仁親続は、豊後府内の宗麟の許へと赴きます。そこで、宗麟は酒宴の趣向として異国の娘を親続に下賜します。その娘はポルトガル人が宗麟に献上したオランダの娘であったといわれています。

その異国の娘は和仁の里で、「南蛮様」と呼ばれて暮らすのですが、ほどなく病に罹り他界してしまいます。
が、親続と異国の娘の間には男子が生まれていました。やがて、その混血児は日本人離れした容貌と体躯をもつ若武者として育ち、武勇に優れ、常に先陣で戦い「人鬼」と呼ばれて恐れられたのです。

しかし彼はその容貌により、父からも疎まれたようです。彼を「人鬼」と呼んだのも父の親続であったとも伝わります。

田中城跡に建つ和仁3兄弟の石像。左奥が人鬼、和仁親宗。
田中城跡に建つ和仁3兄弟の石像。左奥が人鬼、和仁親宗。

豊臣の大軍勢に攻められ落城した田中城、紅毛碧眼の武将の最期とは?

天正14年(1586年)の秀吉による九州征伐では、和仁氏は秀吉軍に従い、軍功もあって本領を安堵されました。
が、翌年、肥後の国主となった佐々成政が検地を行い、それに抵抗して肥後国人一揆が起きます。検地は国人たちの解体を意味します。そして、和仁氏はこの叛乱に加わり、田中城で蜂起します。

和仁城こと田中城全体図
和仁城こと田中城全体図

当主、和仁親実は弟の親範、親宗と一族郎党900の兵で田中城に籠城し、徹底抗戦の構えを見せます。佐々成政の求めに応じた攻城軍は、小早川秀包を大将とする安国寺恵瓊、鍋島直茂、立花宗茂、筑紫広門など1万余の大軍勢でした。そして、秀吉はこの叛乱を重視し、見せしめのために籠城兵の皆殺しを命じます。

田中城は攻城軍1万余に包囲され、その猛攻に晒されながらも2ヶ月の間、持ち堪えます。が、やがて城内よりの裏切りもあって田中城は落城、和仁一族は滅亡します。

本丸跡
田中城本丸跡

城跡は発掘調査が行われ、大規模な空堀や兵舎跡が発掘されています。現在は国の史跡に指定され、歴史公園として整備されています。

和仁の里の奥、上和仁には「南蛮毛」という字名があり、そこには南蛮様が眠ると伝わります。
和仁の里で病に罹り、他界した異国の娘は遠く故郷へ繋がる海が見える地に眠りたいと遺言を残しました。
そして人鬼と呼ばれた和仁親宗は、田中城落城の際、深手を負いながらも城を脱出し、母が眠る南蛮毛に辿りつくと、その墓前で自害して果てたといわれます。

(あらき 獏)

画像提供:発見!ニッポン城めぐり

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