【源義経の養育者:藤原秀衡】奥州藤原氏を全盛に導いた男の人物像とは?

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【源義経の養育者:藤原秀衡】奥州藤原氏を全盛に導いた男の人物像とは?

平安中期から後期にかけて、平泉を拠点とし陸奥国一帯を支配した東北地方の豪族・奥州藤原氏。藤原秀衡(ふじわらのひでひら)はその3代目当主にあたり、源義経を養育したことでも知られています。令和4年(2022)放送予定のNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、田中泯さんが秀衡役を演じます。京都の貴族たちとうまく渡り合いながら独自の栄華を誇った秀衡とは、どのような人物だったのでしょうか?

今回は、秀衡のうまれから家督相続まで、平家と源氏の対立、源頼朝との衝突、その後の奥州藤原氏、秀衡の人物像などについてご紹介します。

うまれから家督相続まで

秀衡はどのように当主になったのでしょうか?うまれから家督相続するまでについて振り返ります。

栄華を誇った奥州藤原氏

藤原清衡が創始した平泉の中尊寺

奥州藤原氏は藤原秀郷の子孫といわれており、宮城県南部を本拠とした豪族だったと考えられています。東北地方の豪族・安倍氏と朝廷とのあいだに「前九年の役」が勃発すると、安倍氏に荷担するも敗北。このとき藤原清衡の母である安倍氏の娘が敵方の清原氏に再嫁したことで、初代・藤原清衡は処刑を免れました。その後、清原家の相続争いである「後三年の役」で唯一生き残った清衡は、清原家の所領を継承し実父の姓・藤原を再び名乗ります。これが奥州藤原氏の始まりとなり、2代基衡の代にはすでにかなりの財力があったようです。なお、清衡が非戦の決意から拠点・平泉に建てた中尊寺は、現在では世界遺産にも登録されています。

父・基衡の死により家督を継ぐ

保元2年(1157)秀衡は父・基衡の死を受けて家督を相続し、出羽国・陸奥国の押領使(警察・軍事的官職)となりました。このころの京都は保元の乱・平治の乱を経て平家の全盛期でしたが、奥州藤原氏は独自の勢力を保っており、平安京に次ぐ人口を誇る平泉は仏教文化をもつ大都市でした。奥州の馬と金によって豊富な財力を得ていた秀衡は、貢金、貢馬、寺社への寄進などにより評価を高めます。また、陸奥守として下向した院近臣・藤原基成と姻戚関係となり、政界ともつながりを持ちました。嘉応2年(1170)には従五位下・鎮守府将軍にも就任。秀衡はその豊富な財力と政界への関わりから、都の貴族たちに恐れられていたようです。

平家と源氏の対立

独自の勢力を持っていた秀衡は、平家と源氏の対立に際し、どのような行動を起こしたのでしょうか?

源氏の御曹司・源義経を養育

鞍馬寺の大天狗と修行をする遮那王(義経)

高倉天皇の治世である安元のころ、秀衡は源氏の御曹司・源義経(牛若丸、遮那王)をかくまって養育しました。義経は源義朝の九男で、平治元年(1159)に起こった平治の乱で父が敗死したあとは、母と同母兄らとともに大和国へ逃亡していたといいます。母は都に戻ったのち公家と再婚し、義経は京都・鞍馬寺へと預けられました。しかし、僧になることを拒否した義経は鞍馬寺を出奔し、秀衡を頼って平泉に下ります。こうして秀衡に庇護された義経でしたが、治承4年(1180)に源頼朝が平家打倒の兵を挙げると、兄のもとへと向かうことを決意。秀衡は引き止めたものの、義経は館を抜け出してしまいます。留めることをあきらめた秀衡は、佐藤継信・忠信兄弟をつけて送り出しました。

治承・寿永の乱には参加せず

平家と源氏による戦いが激化していくなか、養和元年(1181)、秀衡は従五位上・陸奥守に叙任され昇進します。これは平清盛の跡を継いだ平宗盛の推挙によるもので、頼朝や源義仲(木曾義仲)をけん制する目的があったようです。しかし、秀衡はそのような平家の思惑にのることなく、義仲や平家からの動員要請があっても決して動きませんでした。その一方、優れた外交手腕により京都の諸勢力との関係を維持。こうして平泉は平和と独立を保ち続けました。

源頼朝との衝突

戦禍を免れた秀衡ですが、やがて勢力を増してきた頼朝と衝突します。これが奥州藤原氏の運命を変えました。

頼朝からの無礼な要求

歌川国芳『智勇六佳選』より「右大將源頼朝卿」です。

文治2年(1186)、平家を滅亡に追い込んで勢力を強めた頼朝は、「陸奥から都に貢上する馬と金は自分が仲介する」との書状を送り、独自勢力を誇る秀衡にけん制をかけます。奥州藤原氏はこれまで直接京都と交渉してきたため、秀衡にしてみれば無礼な申し出でした。秀衡は頼朝との対立を避けるために従いましたが、鎌倉との衝突はもはや避けられないだろうと覚悟します。このころ頼朝と義経はすでに対立状態にあり、義経は頼朝追討令の宣旨を受けたものの挙兵に失敗し逃亡。頼朝は守護・地頭を設置して義経を追いつめていました。こうして文治3年(1187)2月、秀衡は逃亡してきた義経をかくまうことになります。

反逆者に仕立て上げられ……

文治3年(1187)4月、頼朝の要求はさらにエスカレートし、朝廷を通して「『鹿ケ谷の陰謀』で清盛によって奥州に流されていた院近臣・中原基兼を無理に引き留めずに京へ帰すこと」「東大寺再建の鍍金が必要なので3万両を納めること」などを要求してきます。秀衡は、基兼については本人の意思であり拘束しているわけではないこと、貢金については3万両では多すぎるため応じられないことなどを返答。しかし、頼朝の圧力は止まらず、同年9月、義経が秀衡のもとにいることを確信した頼朝から反逆者に仕立て上げられました。

秀衡の死とその後

頼朝と対立した秀衡は、不安材料を残したまま死を遂げます。その後の奥州藤原氏はどうなったのでしょうか?

子の兄弟不仲に苦慮する

秀衡の後継者は正室腹の次男・泰衡でしたが、側室腹の長男・国衡も存在感が大きく、一族のあいだでは期待が高い人物でした。このような状況から異母兄弟の仲は険悪で、秀衡は頼朝が国衡を味方に引き込み一族分裂を狙うのではないかと恐れます。そこで秀衡は、国衡に自分の正室・藤原基成の娘をめとらせ、国衡と泰衡のあいだに義理の父子関係を成立させました。これは、親子であれば原則として争いは起こらないため、後継者から外れる国衡の立場を強めて兄弟の衝突を回避する策だったようです。秀衡がそれほどまでに兄弟間の険悪な関係を心配していたことがうかがえます。

泰衡が家督相続するが……

文治3年(1187)10月、秀衡はこの世を去りました。これは義経が平泉に入ってから9ヶ月後のことで、秀衡は「義経を主君として3人で力を合わせて頼朝の攻撃に備えよ」と、国衡・泰衡・義経に遺言しています。家督は予定通り泰衡が継承しますが、秀衡の願ったようには事は進みませんでした。

頼朝は泰衡に義経追討を要求する一方、奥州追討の宣旨も要求するなど圧力を強めます。これに屈した泰衡は、義経を自害に追い込み頼朝に恭順を示しました。ところが頼朝は、泰衡が許可なく義経を殺害したとして奥州征伐を決行。これにより奥州藤原氏は滅亡し、助命を嘆願した泰衡は郎党の裏切りにより命を落としました。

秀衡はどんな人物だったか?

秀衡はどのような人物だったのでしょうか?人物像がわかるエピソードをご紹介します。

戦略的なキレ者だった

秀衡は冷静沈着で豪胆な人物だったといわれ、多くの作品で才能のある優れたな君主として描かれています。実際、頼朝は秀衡の存命中は書状でしかけん制しておらず、奥州征伐に踏み切ったのは泰衡が当主になってからです。秀衡はそれほど恐れられていたということでしょう。秀衡は、経済力をもとに朝廷や平家と友好的な関係を維持する一方、源氏との関係を築くなど、高い戦略性と巧みな政治能力をもつ人物だったことがわかります。

ミイラ化してわかった死因

秀衡の遺骸はミイラとなって中尊寺金色堂の須弥壇の金棺内に納められています。学術調査によれば、身長164cmのAB型で、いかり肩で肥満体質、胴回りは幅広く厚く、鼻筋が通った高い鼻、あごの張った大きな顔だったことがわかっています。また、死因は骨髄炎性脊椎炎か脊椎カリエスで、敗血症を併発していたと想定されるようです。

奥州藤原氏の最盛期を築いた

父から譲り受けた潤沢な経済力を元手に、持ち前の政治的手腕により動乱の世をうまく渡り歩いた秀衡。京の貴族たちにも恐れられていた秀衡ですが、最後は源頼朝の策略や子供たちの不仲に苦慮しながらこの世を後にしました。秀衡の死後わずか2年で終わりを告げた奥州藤原氏。秀衡は100年続いた奥州藤原氏の最盛期を築いた人物といえるでしょう。

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