戦国時代ともなれば、死因はやっぱり戦死?・・・かと思われがちですが、もちろんそれだけではありません。病死も多かったですし、中には原因不明の死や事故死もあります。
今回は、戦場でない場所で死を遂げた戦国武将の最期についてご紹介します!
呪われた?発狂した?小早川秀秋
関ヶ原の戦いで西軍から寝返った小早川秀秋は、実はその2年後に21歳で亡くなりました。
彼の死因にも諸説ありますが、ひとつは大谷吉継の祟りという説があります。吉継は自刃する際に「3年の内に祟りを成さん!」と叫んだのだそうです。そのため、秀秋の死を祟りだと人々は噂し合ったようです。
また、「備前軍記」には悲惨な秀秋の最期について記録されています。
鷹狩りに出かけた秀秋は、ひとりの百姓が気に入らず斬ろうとしました。しかし、ここで百姓が捨て身の反撃に出て、秀秋の股間を蹴り上げたところ、何と秀秋はその場で死んでしまったというのです。
これが本当かどうかはわかりませんが、こんな最期、嫌ですね・・・。
実際の死因とされているのは、酒の飲みすぎによる内臓疾患だそうです。肝臓が重篤な状態に陥ると起きる肝性脳症には幻覚症状もあるので、これが狂ったと言われる理由かもしれません。
戦国武将が湖で溺死!?長尾政景
上杉景勝の実父にして上杉謙信の義兄に当たる長尾政景は、謙信に敵対したこともありました。
しかし臣下となった後は信頼され、春日山城の留守居役を任されるまでになったのです。
しかし永禄7(1564)年、政景は野尻池で溺死してしまいました。
舟遊びをしていた時に酔っ払って池に落ちたという彼の死には、かねてから疑惑が付きまとっていたようです。
謙信の側近、宇佐美定満による謀殺、ひいては謙信自身の命があったとも言われているのです。宇佐美定満は、かつて謙信に敵対した政景を粛清しようという意図があったといいます。ただ、定満自身の経歴にも謎が多く、これが彼の最期だったのかどうかもはっきりとはしていません。
一方、舟に同乗していた政景の家臣の母は、政景の遺体の肩下には傷があったとも言っています。
これはどういうことなのか・・・永遠の謎なのかもしれません。
で、豊臣秀吉が死んだ原因は結局何だったのか?
慶長3(1598)年3月の醍醐の花見の後、豊臣秀吉は5月頃から目に見えて体調を崩しました。下痢や腹痛、食欲不振に加えて手足の痛みがあり、失禁もあったそうです。亡くなったのが8月18日なので、わずか5ヶ月ちょっとの間にそこまで悪化してしまうとはいったいどんな病気だったのでしょう。
秀吉の死因については、様々な説がありはっきりとしていません。
主なものを挙げれば、脳梅毒(梅毒性の脳膜炎)や大腸癌、疫痢(赤痢など)、尿毒症、脚気、腎虚などがあります。
秀吉ほどの好色な人間ならば、梅毒の可能性もあります。腎虚というのも過多な性交渉に伴う病気です。
一方、下痢と腹痛に食欲不振であっという間に痩せるという点は、大腸癌の症状にあてはまるかもしれません。脚気は、当時白米を食べる上流階級に多かったビタミン欠乏の病気で、せん妄などの症状もありました。
また、信憑性はともかく毒殺説もあります。明の使者で沈惟敬という人物が大坂城で秀吉に謁見しており、「燃藜室記述」という朝鮮の歴史書には、秀吉は彼に毒殺されたと記述されているそうです。
結局のところ死因は不明ということですが・・・皆さんはどう思いますか?
今のように医学や科学が発達していませんでしたから、はっきりとした死因はわからなかったのでしょうね。
事故にしても、陰謀説は常につきまとったはず。戦国時代、まだまだ多くの謎が残されているようです。
(xiao)
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