【平清盛の三男:平宗盛】平家最後の棟梁はどんな人生を送ったか?

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【平清盛の三男:平宗盛】平家最後の棟梁はどんな人生を送ったか?

平清盛は武家政権の先駆者ともいえる存在です。平宗盛はその息子としてうまれ、平家の最後の棟梁となりました。令和4年(2022)放送予定のNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、小泉孝太郎さんが宗盛役を演じます。兄・重盛と同様、偉大な父と後白河天皇の板挟みになった宗盛は、どのように戦乱を生き抜いたのでしょうか?

今回は、宗盛が地位を確立するまで、源氏の反乱と平家の没落、平家追討と宗盛の最後、宗盛の人物像などについてご紹介します。

地位を確立するまで

宗盛はどのように勢力を強めていったのでしょうか?平家一門のなかで地位を確立するまでについて振り返ります。

平宗盛の生い立ちとは?

宗盛は、久安3年(1147)平清盛の三男としてうまれました。母は清盛の継室(後妻)・平時子です。時子の子としては長男で、安徳天皇の母・平徳子は同母妹にあたります。宗盛がうまれたとき長兄の重盛は10歳で、二人とも正室の子ながら母が異なるため、当初から対立の可能性が懸念されていました。保元の乱が終結したあとの保元2年(1157)、信西の主導で大内裏が再建されます。宗盛は内裏造営の賞として、わずか11歳で従五位下に叙せられました。

兄・平重盛に次ぐ地位を得る

『天子摂関御影』より平重盛像です。

平治元年(1159)12月、清盛の熊野参詣への同行中に平治の乱が勃発します。清盛はすぐに都へ引き返し、二条天皇を脱出させ、藤原信頼・源義朝を破って勝利しました。この勲功として宗盛は遠江守に、のちに淡路守にも就いています。永暦元年(1161)11月、美福門院(藤原得子)の死により後白河院政派と二条親政派の対立が本格化すると、二条天皇は院近臣を解官し後白河上皇の政治介入を停止しました。清盛は二条親政を支持し、側近として送り込まれた宗盛は左馬頭に就任。また、関白・近衛基実と宗盛の妹・盛子が結婚すると、弟・平重衡とともに摂関家政所の別当になります。しかし、二条上皇と基実が相次いで亡くなると、清盛は後白河上皇支持に転換し内大臣に任じられました。また、仁安2年(1167)には重盛が平家の棟梁になり、宗盛は重盛に次ぐ地位を得て平家の中核を担うようになります。

後白河法皇との関係で複雑な立場に……

安元2年(1176)7月、後白河法皇の女御・平滋子が死去し、平家と後白河法皇の対立が徐々に顕在化していきました。それでも重盛が左大将に、宗盛が右大将に任じられ、両大将を平家が独占する状況が続きます。また、滋子の猶子(実親子ではない2者が親子関係を結んだときの子)だった宗盛は、後白河法皇と良好な関係を保っていました。そんな中、後白河法皇の近臣が平家打倒を企むという鹿ケ谷の陰謀が発覚。これにより後白河法皇は平家に屈服することとなり、重盛も義兄が関与していたことから失脚を余儀なくされます。こうして宗盛は重盛に代わって権大納言に就任しました。しかし、妻・清子が亡くなると、宗盛は悲嘆のあまり右大将を辞任しています。

源氏の反乱と平家の没落

やがて源氏の反乱が起こり、平家は衰退していきます。宗盛はどのような働きをしたのでしょうか?

以仁王の挙兵と平清盛の死

熱に苦しむ清盛を描いた『平清盛炎焼病之図』

その後、妹・盛子、兄・重盛が相次いで死去すると、後白河法皇は荘園・知行国を没収。これに激怒した清盛は治承三年の政変を起こし、後白河法皇を幽閉します。宗盛はこのクーデターの後始末として院近臣の所領を没収しましたが、このとき所領を奪われた後白河法皇の第3皇子・以仁王(もちひとおう)が挙兵したことから源氏の反乱が本格化していきました。清盛は福原への遷都を強行したものの、反対意見が多く宗盛もさらなる還都を主張したため帰京。そんな混乱の最中に高倉上皇が崩御し、後白河法皇の院政が再開されます。また、清盛も熱病でこの世を去り、宗盛が平家の棟梁の座を継承しました。

院政の再開と、追討続行

このころ後白河法皇は源氏と通じていましたが、軍事的な権限は依然として平家が掌握していました。宗盛は後白河法皇に恭順を示す一方、反乱軍の追討も続行しますが、源氏勢力は拡大しており、宗盛は京の兵力だけでは反乱の鎮圧は困難だと考え、独自勢力を保っていた奥州の豪族・藤原秀衡を陸奥守に任命しました。しかし、期待した効果はなく、源氏方の木曽義仲軍は平重盛の嫡男・平維盛(これもり)率いる約10万の兵力を破り京都を目指して進軍します。そのような壮絶な戦いが行われる一方、平家の傀儡(くぐつ)となることに反発した後白河法皇は勢力基盤の回復に努め、やがて院政派が復活しました。

平家一門が都落ちする

宗盛は接近する義仲軍に対し中核である軍を投入したものの京都の防衛は絶望的でした。平家は後白河法皇・安徳天皇を擁して西国に退去する予定でしたが、後白河法皇は法住寺殿を脱出して延暦寺に身を寄せます。この事態に動揺した宗盛は一門を引き連れて大宰府へと逃亡。一方、やがて京都に戻った後白河法皇は平家追討の宣旨を下しました。こうして賊軍となった宗盛は、事態の修復を図るべく働きかけましたが、後白河法皇は義仲に宗盛追討を命令。九州を追われた平家は四国に上陸し、屋島を本拠地として瀬戸内海の制海権を掌握し勢力を回復しました。

平家追討と宗盛の最後

その後、平家は源氏により滅亡へと追い込まれます。宗盛はどのような最後を迎えたのでしょうか?

一ノ谷の戦いでまさかの敗退

福原に前線基地を設けるまで回復した平家は、義仲の滅亡により頼朝軍と戦うことになりました。後白河法皇から頼朝に平家追討の宣旨が下され、頼朝の弟である源範頼、源義経の率いる追討軍が西国へと下向。福原は北に山、南に海という天然要害でしたが、一ノ谷の戦いは敗戦に終わり、宗盛らは屋島に落ち延びます。この戦いで有力な武士たちを失った宗盛は軍事力による京都奪還を断念し、後白河法皇に和平を嘆願。しかし、平家追討を目指す後白河法皇はまったく取り合ってくれず、和平交渉は打ち切られました。

屋島・壇ノ浦の戦いで滅亡する

『安徳天皇縁起絵図』より、第七巻「壇の浦合戦」、第八巻「安徳天皇御入水」

一ノ谷の戦いで兵力のほとんどを失った平家は、陸上での戦いを回避し、水軍を率いて断続的な攻撃を行います。範頼軍は水軍力不足で平家を攻略できず、兵糧不足などの問題も重なって士気が低下するなど、戦局は平家側に有利に展開しました。しかし、義経軍に本拠地・屋島を背後から奇襲されると状況は一転します。陸上からの攻撃を想定していなかった宗盛は狼狽し海上へと逃亡。平家は本拠地も瀬戸内海の制海権も失うこととなり、残る兵力で臨んだものの、壇ノ浦の戦いで滅亡しました。

斬首され、この世を去る

宗盛は入水し、死にきれずに泳ぎ回っていたところを引き上げられ、捕虜となって帰京します。宗盛は義経に連行され鎌倉の頼朝の前に引き出されました。このとき宗盛は命乞いをし、その場にいた者から嘲笑されたといいます。その後、宗盛の身柄は京都に送還され、近江国篠原宿にて斬首。嫡男・清宗、次男・能宗らも処刑され、宗盛の男系血統は途絶えました。

宗盛はどんな人物だったか?

宗盛はどのような人物だったのでしょうか?ここでは宗盛にまつわるエピソードをご紹介します。

臆病だけど家族思い

『平家物語』では、兄・重盛が優れた人物だったのに対し、宗盛はごう慢で愚かな人物として描かれています。一方、妻が亡くなった際には官職を返上して死を嘆き、妻の遺言により遺児である能宗を自分の手で育てたり、処刑直前に我が子を気にかけるなど、家族思いだったことがうかがえます。

清盛の子ではないという説も!?

『源平盛衰記』によれば、母・時子は壇ノ浦の戦いで醜態をさらした宗盛に対し、「清盛と自分の子ではない」と言い放ったといいます。清盛は男子を望んでいたものの、うまれた子が女子だったため、京の傘売りの子と実子を取り替えたというのです。宗盛は源氏の捕虜になったときに自らこの説を認め、平家の血筋でないことを理由に命乞いをしたといわれています。

平家棟梁になるも悲しい結末に

平清盛の三男としてうまれた宗盛は、累進して平家の棟梁にまで務めました。しかし、清盛の死により情勢は一変し、最後は朝敵として源氏に追い詰められこの世を去ります。うまれたときから周囲との関係において複雑な立場に置かれていた宗盛は、最後までその状況に苦しめられたといえるでしょう。平家滅亡時の棟梁であることから酷評されることもある宗盛ですが、公家社会での高い実務能力を評価する声もあるようです。

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