鯰(なまず)を祀る地域があるのを知っていますか?
神社には鯰の石像が祀られ、鯰の絵馬が奉納されます。そして、それらの地域には決まって鯰の伝承が残されています。
ここでは、大鯰の逸話を残す阿蘇の古族や、有明海周辺で女神を祀る海民、そして、宗像周辺で建御名方神を奉祭する民など、古代九州を中心に鯰をトーテムとする氏族の謎を探ります。
鯰を神の使いとする神社がいっぱい!?
佐賀県北部の背振、上無津呂の里に淀姫神社が鎮座します。
境内には真新しい鯰の石像が祀られ、鯰の信仰が今も息づいていることを感じさせます。
背振の嘉瀬川流域では6社で淀姫を氏神として祀ります。淀姫とは嘉瀬川河畔、川上に鎮座する肥前国一宮、與止日女(よどひめ)神社の祭神。有明海沿岸には與止日女を祀る神社は多く、そして、この女神が鯰を神使としています。
鯰の伝承といえば、阿蘇の大鯰の逸話が知られます。
阿蘇の開拓神・健磐龍命(たけいわたつ)の神話によると、昔、阿蘇は大きな湖だったそう。健磐龍命は田畑を拓くため、湖の壁を蹴り壊して水を流しますが、大鯰が横たわり水をせき止めたのです。そこで健磐龍命はその大鯰を退治し、湖の水を流したといいます。
阿蘇神話では健磐龍命が九州を治めるため阿蘇に下向し、開拓してゆくさまが述べられています。古く、阿蘇には草部吉見命(くさかべよしみ)が在ったとされ、健磐龍命は彼の娘である阿蘇都比売を娶って阿蘇に土着します。大鯰の逸話は中央から派遣された氏族に、鯰トーテムの民が服属する図式を示すといわれ、阿蘇の古い民は鯰の信仰をもつとされます。
大鯰の霊は阿蘇の古社、国造神社に祀られます。
国造神社は阿蘇神社の元宮ともされ、古く、阿蘇の神々の母と呼ばれる蒲池媛(かまちひめ)を祀るともされます。
蒲池媛は宇土より阿蘇に入った女神、満珠干珠の玉で潮の干満を操る八代海の海神でした。
前述の與止日女も海神とされ、川と海の水を操る二つの珠で、有明海の干満を司ったとされます。満珠干珠を通して、阿蘇の蒲池媛と川上の與止日女が重なります。肥後から筑後にかけて、10社以上の神社で鯰が祀られ、阿蘇と有明海沿岸の鯰の信仰が繋がっているのです。
※筑前、那珂川の伏見神社の鯰の絵馬。與止日女の信仰は背振山地を越え、福岡の那珂川の守り神にもなります。
宗像の南、福間には地域最大の公園「なまずの郷」があります。
福間を流れる西郷川流域の民が、建御名方命(たけみなかた)を祀り、鯰を眷属とすることに由来するとされ、古く、大森宮など西郷川流域の4社で健御名方命祭祀が見られます。
国譲り神話において、健御名方命は武甕槌命(たけみかづち)に戦いを挑み、敗れて信州の諏訪の湖に逃れます。ここの伝承ではその折に大鯰が現れて、建御名方命を背に乗せて対岸まで渡したとされています。
そして、建御名方命を祀る諏訪大社上社大祝の系譜では、前述の阿蘇の祖神、草部吉見命と建御名方命の5世孫の会知速男命が重なるとします。阿蘇や有明海沿岸、そして福間の鯰をトーテムとする民は何らかの繋がりをもつ氏族であったようです。
福間、大森宮の鯰像。大森宮は西郷周辺の社と領主、河津氏の本国、伊豆の6社を合祀した宮。
この宮の鯰の祭祀は河津氏の因縁ともされますが、西郷川流域の民が建御名方神を奉祭し、鯰を眷属とすることによるといわれます。
鯰をトーテムとする民の正体とは!?
鯰をトーテムとする民とはどういった人々でしょうか。
後漢書倭伝に「会稽の海外に東魚是人あり。分かれて二十余国を為す。」とあり、注釈によると「魚是」は鯰の意(魚是は一つの文字)。
会稽の海外とは日本列島のことで、民俗学の谷川健一氏は東魚是人とは鯰をトーテムとする民のことであり、大鯰の伝承をもつ阿蘇の民とします。
古く、呉人の風俗が提冠提縫とされ、提とは鯰。呉人は鯰の冠を被るとされます。
呉は長江下流に在って、BC473年に越に滅ぼされました。呉人は海人、東シナ海から日本列島へ渡ります。大陸の史書に倭人は呉(句呉)の後裔であり、入墨などの習俗が同じであると書かれています。
鯰をトーテムとし、潮の満ち引きを操る民とは、北方の漢人によって蛮とされ、江南から列島へと渡った海民でしょうか。
神武天皇を祀る橿原神宮の門前、久米町は神武二年の天皇による論功行賞において大久米命に与えられた地です。この町の中央に久米氏の氏寺、久米寺があります。この寺にも鯰の奉額がみられ、久米氏族も鯰をトーテムとするようです。
久米氏は古代日本における軍事氏族。神話において、祖神の天津久米命は瓊瓊杵尊の降臨を先導し、大久米命配下は神武東征における皇軍の主力でした。久米氏は隼人系の海人といわれる異能の集団、大久米命は黥利目(入墨目)であったといわれています。
そして、久米の発祥のひとつとして、和名抄に肥後の球磨、久米郷の存在があり、その人吉盆地は球磨(くま)の中枢、のちの熊襲の地とされます。久米はクマとも発音され、歴史学者・喜田貞吉氏は「久米は玖磨にして、即ち肥(くま)人」として、久米は狗人、のちの熊襲に拘わるとしています。
前述の草部吉見命の後裔が、阿蘇の山部氏族といわれています。
この氏族は阿蘇神社を中心とする阿蘇の祭祀を司る氏族。山部は部民制からきた職掌名ですが、それが特定の氏族を示す状況があります。新撰姓氏録は山部を隼人同族の久米氏族の流れとして、久米(くめ)は熊襲の球磨(くま)であり、魂志倭人伝の狗奴国(くな)もそれに纏わるそうです。
隼人は南九州に在った族。早くから宮中の守護にあたり、天皇や王子の近習になったとも。神話では海幸彦(火照命)が隼人の祖とされています。その山彦海彦の説話がインドネシアあたりの神話をルーツにするといわれ、隼人が使う楯の逆S字文や鋸歯文が、東南アジアの楯に悪敵を払う呪術として見られることで、その原初を東南アジアの海民とも思わせます。
また、隼人同族とされる久米氏族の原初を、その音からインドシナ半島のクメールとする説があります。クメールが在ったメコン川の中、下流域に生息するメコンオオナマズは世界最大の淡水魚。神の使いとして信仰の対象とされます。このクメールあたりが鯰をトーテムとする民の原初となるのでしょうか。また、沖縄の久米島が江南よりもずっと南に位置して、呉の鯰トーテムさえ東南アジア由来ではないかとも思わせます。
福間、大森宮の古い鯰像。
鯰をトーテムとする民のその後とは?
飛鳥に亀石の伝承が伝わります。
昔、大和盆地が湖であった頃、川原の鯰と当麻の蛇が争い、川原の鯰が敗れて湖水を当麻に取られてしまいます。そのため川原が干上がり、多くの亀が死に絶えます。人々は亀の霊を慰めるために亀石を祀ったとされます。
太古の大和にはいくつかの王権が存在したという説があり、この逸話はその争いを投影したものとも。古く、鯰をトーテムとする民は中央に在って、蛇トーテムの氏族と権力争いをしたのかもしれません。
武甕槌命を祀る常陸一宮、鹿島神宮や下総一宮、香取神宮において、大鯰を封じる「要石」の存在があります。
国譲りで武甕槌命に戦いを挑んだ建御名方神の神霊を、いまだに封じているということでしょうか。
地中の大鯰が地震を引き起こすといった伝承も逆説的に解釈すれば、忌避された鯰トーテムの民の存在を畏れた人たちがつくりだしたものかも知れません。
初期王権の成立に拘わった鯰をトーテムとする民が、やがて忌避されるに至った痕跡。
そこには国譲り神話の本質が隠されているようにもみえます。
(あらき獏)
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