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昨年の大河ドラマ『真田丸』のハイライトのひとつになった「真田丸の戦い」。そこで繰り広げられたのが、真田信繁(幸村)と井伊直孝の軍勢による激突、いわば「赤備え対決」でした。
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直孝は「井伊の赤鬼」と恐れられた名将・井伊直政の次男。この戦いは圧倒的な地の利、実戦経験の差もあって真田勢に軍配が上がりましたが、直孝は雪辱を期した「夏の陣」で大坂城内へと真っ先に斬り込む大活躍を遂げ、井伊彦根藩の正式な跡取りとなりました。
いずれも戦国時代を生き抜いた「つわもの」同士として、奇しくも後世に伝わる激闘を演じた井伊と真田。その歴史を掘り下げていくと、両家はその境遇という点で意外に似ていることに気が付くのです。いわば、ともに地方の小領主(国衆)から成り上がった大名なのですが、まずは時計の針を戻し、天文20年(1551)の東海地方周辺の情勢を見てみましょう。
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天文20年(1551)は、織田信長が父・信秀の死によって家督を継いだ年です。日本の歴史にとって、この家督継承は非常に大きい出来事だったといえるでしょう。この時の信長は、家督を継いだとはいえ尾張守護代の分家当主で、那古屋城(後の名古屋城)の城主に過ぎませんでした。当時は本家の織田信友が政権を握っており、信長が尾張一国をまとめ上げるまでには7~8年かかったのです。
東の三河(みかわ)に目を向けると、そこは大混乱の渦中にありました。岡崎城主の松平広忠が家臣に討たれ、息子の元康(のちの徳川家康)は、まだ8歳。三河の新たな支配者になった今川義元のもとへ送られ、駿府で人質生活を送っていました。岡崎城は今川家から派遣された城代が治めており、三河は国衆(くにしゅう)たちが、ひしめき合う主君不在の状況だったのです。元康が「家康」として独立する9年前のことです。
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三河から、ひとつ東へ国境を越えた遠江(とおとうみ)に、井伊谷(いいのや)がありました。国衆・井伊家の拠点です。当主の井伊直盛(ドラマの井伊直虎の父)は領内の小高い丘陵に井伊谷城を築き、直盛たちはその山麓に居館を設けて住んでいました。近隣には詰め城の三岳城もありました。城といっても、当時の関東の城ですから砦に毛が生えた程度のものです。
この頃は、駿河・遠江・三河を支配していた今川義元がまさに全盛期を迎えようとしていた頃で、井伊家も今川の支配下に入っていました。また、北に目を向ければ武田信玄が信濃の南部を制圧し、さらには東美濃へと勢力を伸ばそうとしていました。
南信濃の木曾谷の木曽義康や、東美濃の遠山景任といった国衆が信玄に味方し、その勢力拡張を後押ししようとしていたのです。そういえば、木曽義康の息子・義昌(よしまさ)がドラマ「真田丸」にも登場していましたが、この時はまだ12歳です。
そのように、各地の国衆は今川・武田・北条・斎藤といった大大名たちの侵攻に戦々恐々、「今度はどっちへ付こうか」と悩まされる日々でした。なんだか真田昌幸が、息子たちにクジ引きをさせて苦悩している姿が浮かんでくるようです・・・。
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その真田家ですが、当時は昌幸の父・真田幸隆(幸綱とも呼ぶ)が、武田信玄に加勢して戸石城を攻略。先に村上義清によって奪われていた、旧領の真田郷を取り戻したころでした。以後、真田家は武田信玄・勝頼と二代にわたって武田家を盛り立てていくことになります。
さて、一方で井伊谷の井伊直盛ですが、この頃に相次いで身内を亡くしていました。従兄の直満と、その弟が今川義元の命令で殺害されたのです。家臣の小野政直が「直満と直義が武田に内通している」と讒言し、罪を着せたのが理由といわれます。小野の裏切りは直満との内紛が原因であるとも、小野自身が今川から派遣されていた与力であったからともいわれています。
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直盛は、娘の婿に取ろうとしていた直満の遺児・亀之丞(井伊直親)を密かに逃がし、龍潭寺に娘を入れて出家させました。「次郎法師」の誕生です。次郎法師はその後、寺に身を潜めるようにして過ごしますが、井伊家は戦国の荒波に揉まれて波乱の道をたどります。
永禄3年(1560年)、桶狭間の戦いで次郎法師の父・直盛が戦死し、その跡を継いだ直親も約2年後に主家の今川家に謀反を疑われて殺害されます。同年に曾祖父の直平も亡くなり、とうとう井伊家を継ぐに値する男子はいなくなってしまいます。古書『井伊家伝記』によれば、ついに次郎法師は寺を出て、女の身ながら「直虎」と名乗って一時的に井伊家の当主となり、直親の遺児・虎松(後の井伊直政)を養育するという筋書きとなっています。
最近、「次郎法師と直虎は別人」という説が出ており、それはかなり信憑性もあるのですが、長くなるため今回は置いておき・・・。井伊家は男子の当主が誰もいなくなったことで事実上、いったんは滅亡したと言っても良いでしょう。井伊谷も小野政次の実効支配を許しました。しかし、「暫定当主」となった次郎法師は、主家の今川家(氏真)が「徳政令を出せ」と圧力をかけてきても屈しませんでした。
徳政令とは銭主(高利貸し)から借りた借金を、チャラにするというものです。戦乱によって領地が疲弊し、窮した井伊谷の民衆が今川家に求めたともいわれます。しかし、すぐにそれを出せば井伊家は収入が絶えて存続も覚束なくなります。直虎はのらりくらりとかわし、時間稼ぎをしてその間に資金調達を行い、やっとのことで徳政令を出しました。ちょうど、真田昌幸が第二次上田合戦で徳川軍に「降伏する」と伝えたきり、放置したという時間稼ぎを思い出しませんか?
令を出したことで、結果的に屈する形にはなりましたが、2年間もの時間稼ぎに成功したのです。井伊家にとって、この2年間の意味は大きく、今川家はこの永禄11年(1568年)末、武田信玄の侵攻により駿河を奪われてしまいました。
そして、すでに今川家から独立していた徳川家康が力をつけ、家康が井伊谷の奪回に力を貸しました。これによって井伊家は井伊谷を取り戻すことができたのです。ところが、元亀3年(1572)遠江へ武田信玄が襲来し、「三方ヶ原の戦い」で家康は惨敗。井伊の軍勢も敗戦の憂き目に遭い、井伊谷も武田軍の山県昌景(やまがた まさかげ)に奪われてしまいましたが、命からがら家康のもとへ撤退。
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このとき、武田軍の猛将・山県昌景や小幡信貞の「赤備え」の恐怖を、家康や井伊家の人々は嫌というほど味わったかもしれません。これが井伊家にとっても「赤備え」との邂逅になりました。
翌年、信玄が病死したことで武田軍は退却し、家康は危機を脱しました。その後、井伊家は家康に臣従を申し出て、やがて成長した直政が家康のもとで活躍し、徳川家臣として育って「お家再興」を果たすのです。
何度も滅亡の憂き目に遭いながらも立ち上がり、ついには徳川家の中でも筆頭家臣の地位を手に入れた井伊家。その「しぶとさ」は、ある意味で真田家にも通じるものがあります。家康が直政を寵愛し、武田家滅亡後に「赤備え」の軍勢を任せたのは、そうした因縁を感じたからなのかもしれません。
要所要所で大きな転機が訪れるという点は、大体どの勢力も同じですが、井伊も真田も戦国乱世を潜り抜け、生き残りました。そして、その子孫が武家として幕末まで続く名族同士となったことも共通しています。井伊家といえば、幕末の大老・井伊直弼が有名すぎ、先祖のことはこれまであまり話題になりませんでした。それだけに今年、井伊家の立身出世を描く物語にスポットが当てられるのは意義あることではないでしょうか。
【文/上永哲矢(哲舟)】
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