【岩崎弥太郎の妻とは?】夫を支え、義父母に尽くした岩崎喜勢

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【岩崎弥太郎の妻とは?】夫を支え、義父母に尽くした岩崎喜勢

実業家として知られる岩崎弥太郎は、三菱財閥の創業者であり初代総帥としても有名です。幕末から明治にかけての動乱期に政商として巨万の富を得た人物で、その名前は知らなくても三菱という名を知らない人はいないのではないでしょうか。そんな弥太郎を支えたのが妻の岩崎喜勢(きせ)です。今回は、誰もが知る巨大財閥を影から支えた喜勢とはどんな人物だったのかについてご紹介します。

岩崎弥太郎の妻”喜勢”

岩崎弥太郎
実業家として有名な岩崎弥太郎。どんな妻を迎えたのでしょうか。

喜勢はどのような生まれの女性だったのでしょうか。その生い立ちは決して恵まれたものではなかったようです。

岩崎喜勢の生まれと生い立ち

喜勢は弘化2年(1845)に、土佐藩郷士・高芝重春(玄馬)の次女として生まれました。しかし生まれてすぐに父が死去したため、母親は郷士である久萬家に再嫁し、喜勢は叔父の高芝小七郎・古馬夫妻によって育てられます。そんな喜勢が土佐藩の地下浪人(じげろうにん)だった弥太郎に嫁いだのは文久2年(1862)のこと。その出会いは、久萬氏と吉村喜久次・はつ夫妻(弥太郎の姉夫婦)の仲介によるものでした。

結婚後、弥太郎躍進する!

旧岩崎邸庭園にある袖塀
旧岩崎邸庭園にある袖塀の家紋、「重ね三階菱」です。

貧しい岩崎家でしたが、結婚後の弥太郎は大躍進していきます。これが後の三菱財閥の成功へとつながっていくのです。

結婚当時は貧しかった岩崎家

結婚当時の岩崎家は貧しく、喜勢はこのどん底の生活が出発点だったことを決して忘れなかったそうです。姑の美和はもともと町医者の娘で、貧しい暮らしの中でも誇りを失わない凛とした強さがあったといいます。美和が残した岩崎家の家訓の6つ目は「貧しい時のことを忘れないこと」でした。そんな美和と共に岩崎家を守ることになった喜勢なので、その家訓をしっかり守っていたのでしょう。

開成館から三菱商会まで大躍進

スリーダイヤ
三菱の有名なマーク、「スリーダイヤ」は2つの家紋を合わせて作られました。

慶応3年(1867)に弥太郎は、土佐藩で若い藩士たちに教授していた吉田東洋の門下生である福岡藤次の長崎行きに同行します。この頃の土佐藩は、開成館長崎商会を介して欧米の商人たちから船舶や武器の輸入、木材・火薬原料・鰹節の輸出などをしていました。弥太郎は吉田東洋の甥・後藤象二郎からこの主任を命じられ、貿易商人・ウォルシュ兄弟や武器商人・グラバーらと取引していきます。また坂本龍馬たちの亀山社中が土佐藩の機関となると、藩命を受けて残務整理も行いました。

明治2年(1869)10月、明治政府が藩営事業を禁止しようとしたため、土佐藩の林有造は海運業私商社として「土佐開成社(後の九十九商会)」を設立。海援隊・土居市太郎、長崎商会・中川亀之助が代表となり、弥太郎は事業監督担当になりました。翌年には土佐藩の少参事となり大坂土佐藩邸の責任者になるなど大躍進を遂げています。そして明治4年(1871)、廃藩置県で官職の地位を失った弥太郎は、九十九商会の経営者となったのです。

明治5年(1872)九十九商会は「三川商会」に、翌年には「三菱商会」、翌々年には本店を東京日本橋の南茅場町に移転して「三菱蒸汽船会社」へと姿を変えていきます。今日広く知られる三菱のマークである「スリーダイヤ」はこのときに作られたもので、土佐藩主山内家の三葉柏紋と岩崎家の三階菱紋の家紋を合わせたものでした。

この後、弥太郎は今でいうインサイダー取引によって巨万の富を得ることとなります。政府が紙幣を統一する際に、各藩が発行した藩札を大量に買い占めて新政府に買い取らせたのです。弥太郎が事前にこの情報を得られたのは、政府の高官になっていた後藤がいたからでした。

弥太郎と喜勢の結婚生活は?

仕事で大躍進していった弥太郎ですが、喜勢との結婚生活はどのようなものだったのでしょうか。

1男2女をもうける

岩崎久弥
弥太郎と喜勢の長男の久弥は、後に男爵の称号を授けられました。

弥太郎には多くの妾がおり、亡くなるころは6人いたといわれています。妾との間には子どもがたくさんできていますが、正妻である喜勢との間にも、長女・春路、長男・久弥、次女・磯路と3人の子どもが誕生しています。

長男の久弥は、弥太郎の死後に男爵を授けられ、娘婿4人のうち2人は後に内閣総理大臣となりました。これは三菱と国家の親密さを証明しているといえそうです。

強い影響を受けた姑の美和

弥太郎と喜勢の結婚生活を語る上で欠かせない人物が、弥太郎の母である岩崎美和です。安政2年(1855)父・岩崎弥次郎は、傷害事件を起こしてしまい、免罪を奉行所に訴えた弥太郎も父と一緒に投獄されてしまいます。その結果、岩崎家は美和だけが残され、困窮を余儀なくされます。

そんな中でも美和は持ち前の頑張りで家計をやりくりし、危機的状況から岩崎家を守りました。美和は明治時代に入ってからも、岩崎家に訓戒を残して家政に重きをなします。岩崎家に嫁いだ喜勢は、この義母に大いに影響を受けたようです。喜勢は義父母によく仕え、家訓に従う良き嫁となり、弥太郎を支えました。

多くの子どもを育てた喜勢

沢田美喜
弥太郎と喜勢の孫娘である沢田美喜。彼女も立派な功績を残しました。

維新後の明治7年(1874)、喜勢は土佐から東京府に転居します。そして、邸宅内に作った学寮「雛鳳館(すうほうかん)」で子女たちの教育を行いました。この中には妾腹の子や養子もいましたが、喜勢は分け隔てなく育てたといいます。岩崎家の系譜をのぞくと、そこには名だたる人物が並んでいます。このように脈々と続く血筋を守ったのが喜勢だったといえるでしょう。

良妻賢母として知られる

三菱といえば今では知らない人はいないほど有名な財閥。そんな財閥を作り上げた夫を支えた喜勢は、実子だけでなく養子や妾腹の子も育て、義母にも良く仕えた良妻賢母でした。激動の時代、生活環境も目まぐるしく変わる中で自分を見失わずに夫や家庭を支え、さらには教育にまで手を広げていった喜勢のバイタリティーあふれる姿がそこにあります。夫である弥太郎の事業が成功したのも、そんな彼女の努力の賜物かもしれませんね。

 

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