【山崎の戦いと明智光秀】三日天下を決めた光秀最後の戦いの経緯と敗因

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【山崎の戦いと明智光秀】三日天下を決めた光秀最後の戦いの経緯と敗因

織田信長に反旗を翻し天下人となった明智光秀。その天下は長くは続きませんでしたが、日本史上に大きなインパクトを残したことは間違いないでしょう。光秀の人生最後の戦いとなったのは、豊臣秀吉との「山崎の戦い」です。もしこれに勝利していれば歴史は大きく変わった可能性がありますが、光秀はなぜこの戦いで敗北したのでしょうか?
今回は山崎の戦いについて知りたい人に向けて、本能寺の変後の光秀の動き、合戦の経緯や影響、光秀の敗因などについてご紹介します。

本能寺の変後、明智光秀はどう動いたか?

本能寺の変で信長が自害したあと、光秀はどのような行動に出たのでしょうか?山崎の戦いが起こるまでの動向を振り返ります。

織田家重臣・柴田勝家を警戒

信長の死後、光秀は京の治安維持に努め、近江に軍を派遣して急いで京以東の地盤を固めました。これは、居城・坂本城や織田家本拠・安土城の周辺を押さえると同時に、柴田勝家を警戒していたからだったようです。勝家は信長の父、織田信秀の時代から織田家の重臣で、この当時は織田家中で最大の力を持っていました。信長を討った光秀にとって、警戒せざるを得ない人物だったといえるでしょう。

羽柴秀吉の接近を知る

光秀は数日の内に瀬田城や日野城をのぞいた近江を平定し、自分の世を作るための準備を進めていきました。しかし、そのような状況のなか、秀吉が接近しているという知らせを受けます。光秀は淀城・勝龍寺城を修築して急いで態勢を整えましたが、羽柴軍の進軍は予想を超えるものでした。そのため、光秀は十分な準備ができないまま合戦に挑むことになったのです。

合戦の経緯

光秀と秀吉は、摂津国と山城国の境にある山崎の地で激突します。その戦いの経緯はどのようなものだったのでしょうか?

天王山で激突!攻防戦を続ける

現在の天王山からの景色。この地で山崎の戦いは行われました。

秀吉軍は事前に山崎の集落を占拠しており、池田恒興・黒田官兵衛・羽柴秀長ら名だたる武将が天王山の山裾に沿って布陣、秀吉本陣はその後方に置かれました。一方の明智軍は、本陣の前に斎藤利三・阿閉貞征・河内衆・旧幕府衆らが布陣し迎撃に備えます。円明寺川を挟んで対陣した両軍は雨天のなかでも対峙し、天王山での攻防戦を繰り広げました。この戦いでは天王山の占拠が勝敗を決めたといわれており、これは「勝負の分かれ目=天王山」という成句の語源になったことでも知られています。

士気が低下し脱走者が相次ぐ

序盤は有利に戦闘を進めていた明智軍でしたが、恒興・元助父子らが円明寺川を渡って津田信春を奇襲したことから戦局が一変しました。丹羽長秀や織田信孝の隊が光秀本隊の側面を突き、苦戦を強いられた明智軍は総崩れとなります。主力の斎藤隊も壊滅して敗走、殿を引き受けた伊勢貞興らも討死するなど、大打撃を受けた明智軍の士気は著しく低下し、離散や脱走者も増えて兵力が減衰しました。

勝龍寺城を脱し、坂本城を目指す

月岡芳年による、『月百姿 山城小栗栖月』です。

苦しい戦況のなか後方の勝龍寺城に撤退していた光秀は、居城・坂本城に落ち延びようと密かに脱出しました。しかし、その途中の小栗栖の藪で落ち武者狩りに遭い、志半ばで命を落としてしまいます。その最期には諸説あり、竹槍に刺されて死亡したという説や、逃げ延びたものの力尽きて自刃したという説などがあるようです。秀吉が光秀を捜索していたこともあり、その首はのちに秀吉軍のもとに届き、京都の本能寺などでさらされました。

合戦がもたらした影響

山崎の戦いで敗走しこの世を去った光秀。彼の死により世の中はどのように変わったのでしょうか?

明智氏が滅亡した

秀吉の家臣・堀秀政は、後詰めとして急きょ出兵した光秀の娘婿・明智秀満の軍を撃破しました。敗走した秀満は坂本城で光秀の妻子を殺害して自刃。また、光秀の息子・明智光慶も自刃に追い込まれ、城を占拠されました。これにより、僧籍にいた者などを除いて明智氏は滅亡したのです。なお、秀満が坂本城に落ちのびる際、琵琶湖を馬で渡ったという湖水渡り伝説が残されています。

秀吉の地位が確立した

信長の弔い合戦に勝利した秀吉は、清洲会議を経て信長の後継者の地位を確立していきました。光秀が警戒していた勝家は影響力や発言力が低下し、重臣筆頭の地位を占めた秀吉は執権の長秀と恒興を懐柔して天下人への道を歩み始めます。信長の三男・信孝は、このような秀吉の動きに危機感をもち、勝家とともに反秀吉陣営を構築。こうして織田家の家臣は二分され、賤ヶ岳の戦いへとつながっていきました。

明智光秀の敗因とは?

「小栗栖の藪」は、光秀が絶命したとされている場所です。

山崎の戦いで光秀が負けた理由はなんだったのでしょうか。ここでは敗因として考えられる内容を3つご紹介します。

秀吉軍の対処が早かった

本能寺の変が起こった当時、中国方面の軍団長に任命されていた秀吉は備中高松城攻めの最中でした。信長横死の知らせを聞いた秀吉は、信長の死を隠したまま毛利軍と和議を結び、高松城主・清水宗治の切腹を見届けてから京に向けて全軍を移動させています。この「中国大返し」は10日で約200kmを走破するという猛スピードで、光秀にとっても予想外の速さだったといえるでしょう。

諸将を味方につけられなかった

秀吉は事前に根回しをして、諸将が光秀側につくことを防ぎました。京への進路上にあった摂津衆には偽情報の書状を送り、中川清秀・高山右近ら多数を味方に組み入れています。また、名目上の総大将には信長の三男・信孝を据え、最終的に秀吉軍の兵力は20000人を超えました。
一方の光秀はうまく諸将を取り込めなかったようです。盟友の細川藤孝は婉曲的に協力を拒み、光秀に大きな恩を感じていた筒井順慶も最後は秀吉に寝返りました。彼らが味方にならなかったのは、大きな誤算だったことでしょう。

準備が万全ではなかった

光秀軍と秀吉軍には大きな兵力差がありました。秀吉は中国平定のために信長軍の主力を任されており、諸将を味方につけたうえで予想以上のスピードで京に戻っています。しかし、このころの光秀は近江方面に軍を動かしており、さらには周辺勢力の助力を得られなかったため、十分な兵力を確保できないまま戦いに挑まざるを得なくなったのです。結局2~3倍の兵力を前に決戦に臨んだ光秀ですが、準備が万全ではなかったことが大きな敗因といえるでしょう。

成句「三日天下」の由来となった

光秀はどのような世の中を作ろうとしていたのでしょうか?今となっては光秀の想いはわかりませんが、本能寺の変後、政局は彼を中心として動いていたようです。肥後細川家『明智光秀公家譜覚書』によれば、光秀は従三位・中将に叙任され、征夷大将軍の宣下を受けたとされています。しかし、その天下はわずか12日間ほどで終わってしまいました。このことから山崎の戦いは、短い期間だけ権力を握ることを示す成句「三日天下」の由来にもなっています。

 

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