渋沢栄一とともに学び、実業家として活躍したことで知られる渋沢成一郎(喜作)。彼の存在は栄一にとっても重要なものだったようです。NHK大河ドラマ『青天を衝け』では高良健吾さんが成一郎役を務めていますが、果たして成一郎はどのような人生を歩み、どのような功績を残したのでしょうか?
今回は、成一郎が一橋家の家臣になるまでの経緯、戊辰戦争での奮闘、実業家としての活躍、成一郎の人物像などについてご紹介します。
一橋家の家臣になるまで
若い頃の成一郎は、どのように過ごしていたのでしょうか?一橋家家臣になるまでについて振り返ります。
豪農・渋沢文左衛門の長男として誕生
成一郎は、天保9年(1838)武蔵国血洗島(埼玉県深谷市)の豪農・渋沢文左衛門の長男として生まれました。幼名は喜作です。父・文左衛門の弟が渋沢栄一の父親だったため、成一郎と栄一は従兄弟同士でした。成一郎は幼いころから2歳年下の栄一と親交があり、二人で尾高惇忠の私塾・尾高塾に通うなどしていたようです。
一橋慶喜のもとで出世する
青年になった成一郎は尊王攘夷の志を持ち、惇忠や栄一らとともに高崎城の乗っ取りを画策します。しかし、惇忠の弟・尾高長七郎の説得を受け計画は頓挫。成一郎と栄一は江戸から京都へ逃れたのち、元治元年(1864)に平岡円四郎の推薦により一橋家当主・一橋慶喜に仕えました。農兵の徴募係となった二人は江戸に戻り、関東にある一橋家の領地を回ります。この功績が認められ、成一郎は慶応2年(1866)に陸軍附調役に昇格。慶応3年(1867)に慶喜が江戸幕府の将軍になると、奥右筆に任じられ上京に同行しました。
戊辰戦争での奮闘
その後、成一郎は幕末の混乱に巻き込まれていきます。戊辰戦争で成一郎はどのような活躍をしたのでしょうか?
彰義隊の頭取に就任
慶応4年(1868)1月に戊辰戦争が勃発すると、成一郎は初戦となる鳥羽・伏見の戦いに参戦し慶喜を補佐しました。江戸帰還後、慶喜は上野・寛永寺にて蟄居し、将軍警護を主張した成一郎は同志を集めて結成した彰義隊の頭取に就任します。その後、江戸城が開城され慶喜が水戸で謹慎となると、成一郎は上野からの撤退を主張。彰義隊を日光に移し新政府軍に対抗しようとしますが、江戸での迎撃を主張する武闘派の副頭取・天野八郎と対立します。これにより暗殺されそうになった成一郎は、彰義隊を脱退しました。
なお、このころ栄一は慶喜の弟・徳川昭武に随行してフランス万国博覧会の視察で渡欧しており、幕末の動乱には巻き込まれずに済んだようです。
振武軍を発足する
彰義隊の脱退後、成一郎は有志とともに振武軍を結成します。慶応4年(1868)5月中旬には武蔵国入間郡飯能の能仁寺に本営を移して新政府軍を迎え撃ちました。上野戦争に勝利した官軍は、大村藩、佐賀藩、久留米藩、佐土原藩、岡山藩、川越藩からなる約3000人の兵力で飯能に進攻し、飯能戦争が勃発。この戦いに敗北した成一郎は上州伊香保に逃れ、草津に潜伏します。その後、幕府海軍・榎本武揚の艦隊と合流。同年8月には振武軍の残党と彰義隊の残党が合体して新たな「彰義隊」を結成し、その頭取となりました。
蝦夷地で箱館戦争に参加
その後、成一郎は榎本ら旧幕府軍とともに蝦夷地に向かい箱館戦争に参戦します。しかし松前城攻撃の際、彰義隊は渋沢派と反渋沢派に分裂。榎本が仲裁に入り、渋沢派は小彰義隊となり、成一郎がこの頭取に就任しました。小彰義隊を率いた成一郎は湯の川温泉方面に陣取りましたが、箱館戦争終結直前の明治2年(1869)5月15日、戦線を放棄して旧幕府軍を脱走し、湯の川近辺に潜伏。1ヶ月後の6月18日には新政府軍に出頭し、榎本ら幹部と同じく東京の軍務官糾問所に投獄されました。
実業家としての活躍
幕末は旧幕府軍として戦った成一郎ですが、明治時代以降は実業家として活躍していきます。
大蔵省に出仕するも退職
成一郎は栄一を身元引受人として赦免され、すでに出世していた栄一の仲介で大蔵省に入りました。この頃から、幼名の喜作を再び名乗るようになっています。出仕後は養蚕製糸事業の調査で渡欧するなどしましたが、帰国後の明治6年(1873)には栄一にならって退職。栄一の推薦で豪商・小野組に入り、相場師や実業家として手腕を発揮していますが、翌年には小野組が破綻してしまいました。
廻米問屋として独立する
明治8年(1875)、成一郎は深川に居を構え自ら渋沢商店を開業します。もともと独立して商売したいと考えていた成一郎は、このときにも栄一からアドバイスをもらったようです。成一郎は栄一とともに、貢租の金納化により混乱していた米穀物流の再編に尽力し、上信奥羽から東京への廻米、委託販売、荷為替決済、運送保険の制度創設に取り組みました。しかし、明治14年(1881)に米相場が急落し、成一郎は多大な損失を出してしまいます。このとき借金の保証人になっていた栄一が損失を弁済したため、成一郎は危機を免れました。
隠居後も生糸商として尽力
渋沢商店の本店・横浜に生糸部を置くようになると、成一郎は生糸の輸出や委託販売も行うようになります。当時の日本にとって生糸は主要な輸出品で、成一郎は渡欧経験から事情に詳しかったようです。明治14年(1881)には連合生糸荷預所の開設にも尽力し、明治16年(1883)の隠居後も商売には関わり続けました。しかし明治20年(1887)ごろ、生糸輸出での換金取引でまたしても多大な損失を出してしまいます。成一郎は再び栄一の援助を受けましたが、条件として米取引・生糸取引の第一線から引退し、渋沢商店の経営からも離れました。
仕事を引退し、余生を送る
その後も成一郎は財界に関わり、東京人造肥料会社設立に際し、栄一とともに設立委員に就任します。明治29年(1896)には東京商品取引所理事長に就任。翌年には栄一と共同で十勝開墾合資会社を設立し、初代社長を務めました。そして明治36年(1903)、成一郎はすべての仕事から引退し、白金台の邸宅で余生を送るようになります。渋沢商店を継いだ子供たちは栄一の指導で事業を発展させ、生糸貿易により横浜財界で名を轟かせたそうです。成一郎は子供たちの活躍に満足し、大正元年(1912)に75歳でこの世を去りました。成一郎の死に際しては、多くの米穀商、生糸商が弔意を表したといわれています。
成一郎の人物像とは?
幕末から明治にかけて豪快な人生を送った成一郎。彼はどのような人物だったのでしょうか?
ギャンブラー気質だった!?
成一郎は米相場で大失敗したあとも懲りずにドル相場に手を出して失敗を重ねるなど、投機心の強い人物でした。栄一が一歩ずつ着々と進むタイプなのに対し、成一郎は一足飛びに志を達しようとするタイプだったようで、栄一は「投機的気分があった上に、他人を凌ごうとする気性もあった」と述べています。
渋沢栄一とは「一身分体の間柄」
栄一は成一郎の数度の失敗にも手を差し伸べ、成一郎もまた栄一の事業に何度も協力しました。二人は幼年のころから一緒で、村で事件が起こった際も二人が出てくれば話がまとまるといわれていたそうです。大成功を収めた栄一と、成功しつつも失敗を重ねた成一郎。対照的な二人ですが、栄一にとって成一郎は「一身分体の間柄」だったようです。
渋沢栄一とともに歩んだ実業家
幕末期に一橋慶喜の家臣となり、明治に入ってからは実業家として活躍した渋沢成一郎。彼の事業は大成功したものの、その裏では大失敗もありました。そんな窮地を救ってくれたのは、幼いころからともに行動してきた渋沢栄一です。また、栄一の大成功の裏には、成一郎の協力がありました。性格は正反対の二人ですが、お互いになくてはならない存在だったのかもしれませんね。
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