【本当は美談じゃなかった!?】「敵に塩を送る」のウラ話

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1月11日は「塩の日」ですが、その由来をご存知でしょうか。
あの有名な、上杉謙信が武田信玄に塩を送った日に基づいているそうです。また、武田領だった現在の長野県松本市では塩が到着したことを記念して塩市がはじまり、やがて現在の「松本あめ市」になりました。この現代で美談とされている「敵に塩を送る」逸話、本当にホントだったのでしょうか。今回はそのウラ話に迫ってみたいと思います。

信玄、塩に困り、謙信、塩を送る

「この逸話をもとに、こんな塩が販売されています」

参照元:山本味噌醸造場HP

永禄10(1567)年、信玄は当時同盟していた駿河の今川氏真との関係を悪化させていました。そのことにより、氏真は信玄の甲斐国への塩の供給を止めてしまったのです。

甲斐といえば内陸の国で海がないため、当然、塩が採れません。そのため、塩はすべて駿河湾で採れたものを今川氏を通して買っていました。

塩は人間の生命維持に必要不可欠なもの。食料の長期保存にも役立ちますから、これがなくては本当に死ねと言われているようなものだったわけで、信玄はほとほと困り果ててしまいました。

これを知った謙信は、氏真の行いを卑怯とし、甲斐に越後で採れた塩を送ったといいます。これが「敵に塩を送る」の由来だったんですね。

ただ、これが史実かどうかは裏付けがなく、後の創作とも言われています。では、真実はどうだったのか考えてみましょう。

謙信の真意はビジネスにあり!?

「考える謙信像:戦に強いだけでは戦国を生き延びることはできません」

塩をただで信玄に送ったかどうかはともかく、謙信は氏真のやり方に同調してはいなかったようです。つまり、塩を甲斐に流通することは続けていたのでした。

謙信は軍神と呼ばれる一方で、ビジネスパーソンとしての側面も持っていました。当時、衣類の原料となったアオソの栽培を行い、日本海経由で京都、ひいては全国へと売り出し、莫大な利益を得ていたのです。加えて当時は戦国時代、とかく戦にお金がかかります。資金を得るためにはビジネスが大切だったのですね。
そのため、謙信は塩の流通を止めて利益を落とすことはしたくなかったのだと考えられます。つまりは、越後の塩商人が甲斐で塩を売ってもうけまくったということになるのです。ただで塩をあげたわけではないのです。

信玄の困窮をビジネスチャンスととらえて動いた、と考えられるのではないでしょうか。

どうして美談になったのか

信玄が感謝の意をこめて謙信に送った福岡一文字の太刀 銘「弘口」は、通称「塩留めの太刀」と呼ばれています。
感謝とはいっても、塩を送ってくれたということではなく、塩の供給を止めないでいてくれたことに感謝したということのようですね。

「信玄と謙信の川中島での一騎討像」

信玄と謙信は、川中島の激闘など終生のライバルとされていました。そして信玄は臨終の床で息子・勝頼に「何かあったら越後の謙信を頼れ」とも言い残しています。また、他の戦国武将からも、謙信の義理堅さは認められていました。

そのため、謙信が義を重んじて信玄に塩を送ったということはありえなくはないという風潮に至り、後世に肉付けされて伝わったとも考えられます。

実は謙信は、父親を追放したり謀略で相手を陥れたりする信玄を良くは思っていなかったとも言われています。これが真実なら、謙信が塩の供給を止めなかった理由は、単なるビジネスのため?ともみえてしまいますね。しかし、やはりこの2人にロマンを感じたい身としては、謙信が塩を率先して信玄に送り届けたと考えたいのもわかる気がします・・・。

(xiao)

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