大河ドラマ「真田丸」では片岡愛之助さんが演じている大谷吉継、落ち着いた雰囲気が素敵ですね。
しかし実は「真田丸」をきっかけに大谷吉継を知ったという方もいるのではないでしょうか?
そこで今回は、大谷吉継がどんな人物なのか、どんな経緯で真田信繁に娘を嫁がせたのか、親友とされる石田三成との関わりについても合わせてご紹介していきましょう。
大谷吉継という人物
大谷吉継の出自ははっきりとはしていません。通説では永禄2(1559)年生まれ、近江国(滋賀県)出身だと言われています。父は大谷吉房、母は東殿で、北政所(おね)の側に仕えていたそうです。
母の関係からか、吉継は羽柴秀吉の小姓となりました。後に馬廻衆となり、賤ヶ岳の戦いでは武功と調略で成果を上げ、秀吉の信頼を深めていきます。
秀吉が関白となると、刑部少輔の官位を授かりました。「大谷刑部」という通称はここから来ています。奉行として官僚的な立場を三成と共に担い、朝鮮出兵時の和平交渉にも当たりました。また、越前敦賀城主として内政を善くしました。
秀吉の死後、実は徳川家康とも懇意にしていました。三成と家康を和解させようと三成のいる佐和山城へ赴くと、三成から家康への挙兵を持ち掛けられます。当初は無謀だと止めましたが、三成の固い決意に打たれ、西軍への参加を決めました。
関ヶ原の戦いでは予め小早川秀秋の裏切りを読んでおり、それに対して激戦を続け一時は優勢に立つも、他の隊の裏切りによって吉継の隊は壊滅状態となり、自害を選びます。その首は側近によって隠されたといい、発見されませんでした。
義に殉じた彼は元々武将としての評価も高く、秀吉には「100万の大軍を指揮させてみたい」と言われたそうです。
また、業病(ハンセン病か)を患っており、顔を白い布で隠し、戦場では輿に乗っていたと言いますが、詳細は不明です。晩年は失明していたそうです。
娘・竹林院を真田信繁に嫁がせる
吉継の娘(「真田丸」では「春」、出家した後は竹林院)は真田信繁の正室となりました。しかしなぜ吉継は娘を嫁がせたのでしょうか。
これには、秀吉の上意があったと考えられています。真田家と重臣の大谷家を結ぶことで、豊臣家も強化できるからです。
政略結婚でしたが、彼らは関ヶ原後の九度山での苦しい生活も共に乗り越えました。5人の子供に恵まれ、娘は「真田紐」を考案し、家計の足しにしたと伝わっています。
実際、信繁は大坂の陣でも豊臣家のために活躍していますから、その点では秀吉の狙い通りだったのかもしれません。
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刎頸の友・石田三成との関係
吉継と三成は「刎頸の友」とも呼ばれます。互いに首を斬られても後悔しない間柄、という意味です。
三成も近江出身で年齢も近かったと推測されるため、彼らが友人となる要素はたくさんあったのですね。また、九州や小田原、朝鮮など行動を共にする機会が多く、奉行として活躍したという共通点もありました。
三成に関ヶ原挙兵の話を持ちかけられると、「お前は横柄で人望が無いから人が集まらない」とズバリと言ったそうです。親友ならではの、遠慮なく物が言える関係性です。
逸話ではありますが、茶の湯の席で病気持ちの吉継の膿が落ちた茶を、三成が気にせず飲み干したという話もあります。
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また、朝鮮出兵時に吉継が秀吉の勘気を蒙ったことがあり、謹慎していました。
その時に秀吉が茶会を催したのですが、三成は謹慎中の吉継を慰めるため、こっそり手を回して彼が名茶器だけでも見られるように計らってあげたそうです。
大谷吉継は戦でも実務でも能力があり、家康とも懇意にするなど対人関係を築くのも上手かったようですね。しかし三成を見捨てずに西軍に属してしまったところが、彼の優しさが裏目に出た点だったと思います。
実はとても魅力的な人物、そう思いませんか?
(xiao)
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