江戸時代末期に幕府の老中を務めた阿部正弘。大河ドラマ「西郷どん」では藤木直人さんが演じています。まさに仕事もできるイケメン政治家というビジュアルですが、実際はどんな人物だったんでしょうか?のちに「安政の改革」と呼ばれるまでになった、彼の功績をご紹介します。
25歳の若さで老中に就任
「篤姫」では草刈正雄さん、「翔ぶが如く」では若林豪さんという、歴々のイケメン俳優が演じてきた阿部正弘。残された肖像画を見ると、かなり恰幅がよかったようなんですが、それでも大奥の女性たちからの評判は抜群だったとか。見た目以上に人柄がよかったのかもしれません。
では、政治家としての手腕はどうだったのかというと、これまたデキる人でした。18歳で家督を継ぎ、備後福山藩主になると、翌年には幕府の奏者番に就任します。天保11年(1840)には寺社奉行を任じられ、そこでの活躍が12代将軍・徳川家慶の目にとまり、天保14年(1843)、25歳という若さで老中に就任。さらにその2年後には、幕府政務のトップに相当する老中首座に昇進するという、スピード出世を果たします。
斉彬とは年齢差を超えた仲に
阿部の功績の中で特筆すべきなのは、慣習にとらわれず、能力を優先して行った大胆な人材登用です。
勝海舟、反射炉を築き、日本に西洋砲術を普及させた江川英龍、さらにはジョン万次郎といった、幕臣としては決して身分が高くないにもかかわらず、才能に秀でた人材を積極的に登用しました。彼らはその後、幕府を支える原動力となり、その一部は、維新後の新政府においても重要な役割を果たしていきます。
薩摩藩の島津斉彬や水戸藩の徳川斉昭をはじめとした、見識の優れた諸大名から幅広く意見を求めたことも画期的でした。特に島津斉彬とは、10歳という年齢差を超えて、互いの能力を認め合うほど。そのため薩摩藩のお家騒動に介入し、最終的には将軍・家慶を動かすことで、30歳台後半になっても藩主の座に就けなかった斉彬を、薩摩藩主に就任させています。
黒船来航時も冷静に対応
さらに、嘉永6年(1853)に起こった黒船来航の際には、幕政の総責任者として対応しています。
そもそも阿部正弘は弘化3年(1846)、徳川斉昭に送った書状の中で、こうした事態を予見していました。書状では、欧米列強によるアジア侵略の危機を述べながらも、過激な攘夷論を唱える斉昭に対し、現状の武力による無謀な攘夷を否定。まずは軍艦を作り、海防強化に取り組むことが急務であると唱えています。
そのため阿部は、アメリカ大統領の親書を携えて来航したペリー一行にも冷静に対応。その後も事態を穏便におさめるため、嘉永7年(1854)に、日米和親条約を締結。これにより約200年にわたって続いた鎖国政策は終焉するのです。
「安政の改革」として評価される
しかし、当時の日本では、安政の大地震、コレラの流行といった災厄が立て続けに発生。その処理に心血を注いだ阿部正弘は激務が祟ったのか、安政4年(1857)、39歳で急死します。
在任中は協調路線に徹したことから「瓢箪鯰」と呼ばれていたとされ、政治的な力量を疑問視すらされていましたが、彼がいかに有能だったかは、その死後、明らかになっていきます。
近年では、阿部が主導した一連の幕政改革は「安政の改革」と呼ばれ、享保の改革・寛政の改革・天保の改革という幕府三大改革に次ぐ画期的な改革として、評価されるようになりました。
阿部亡き後の徳川幕府は将軍継嗣問題、さらには桜田門外の変による混乱を経て、その権威は徐々に失墜。阿部が意見を求めた諸大名たちが、政治面での発言力を増していったことも、幕府のさらなる弱体化を招きました。結果的に幕府は、勢力を増した薩長土肥を筆頭とする諸藩によって滅ぼされ、明治維新を迎えることになります。
阿部がもし、もう少し生きていたら、幕末の様相も変わったかもしれません。
(スノハラケンジ)
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