明治維新の中心となった薩摩藩。維新後は、西郷隆盛や大久保利通を筆頭に、多くの薩摩藩士が新政府や軍の要職を占めて「藩閥」を形成し、近代国家としての日本をリードしていきました。
その薩摩藩士の間で長年タブーとされた田中河内介(たなか・かわちのすけ)という勤王の志士をご存じでしょうか?
「最も悲惨な最期を遂げた志士」といわれる河内介について、こんな不気味な怪談が伝わっています。
河内介の話をすると…
大正初期、東京の書画屋に同好の人たちが集まって怪談を話し合っていました。ある日、見知らぬ男が訪れて「田中河内介の話をしたい」と言います。「河内介の話をすると良くないことが起こるのというので、誰も話さないが、私は河内介の最期について真相を知る最後の1人になったので話しておきたい」ということなので、集まった人々は興味津々。
しかし、男はなかなか本題に入らず、要領を得ないことばかり繰り返します。やがて1人また1人と座を立って、別室で煙草を吸いながら「あの男、どうかしてるんじゃないか」と笑い合っていると、慌ただしく人がやってきて「男が死んでいる」と告げました。男は、河内介の最後に触れないまま急死してしまったのです。その場には、小説家の泉鏡花や歌舞伎役者の市川猿之助も同席していたともいわれます。
民俗学的にいうと、河内介の最後は話すと呪われる「忌み話」で、その背景には真相を隠さなくてはならない事情があることが通例です。その田中河内介とは、一体どのような人物だったのでしょう?
明治天皇の教育係だった田中河内介
河内介は但馬(兵庫県北部)出身で、公卿中山忠能に仕えていました。忠能は外孫である幼い明治天皇を中山家で養育したのですが、この時の教育係が河内介でした。
明治天皇が御所に入った後、急進的な尊皇攘夷論者であった河内介は西国の志士たちと交流。薩摩藩主、島津久光の上洛に合わせて挙兵計画を企てますが、文久2(1862)年の寺田屋騒動で薩摩藩に捕えられます。
河内介は息子・瑳磨介らと海路で薩摩へ護送されることになったのですが、その過激な思想を危険視した藩士が船中で彼らを惨殺。河内介の殺害について公式の記録はなく、誰の命令だったのかもはっきりしていませんが、殺害に関わった藩士が発狂したり、現場の海域で薩摩藩の御用船が沈没したりと怪異が発生。人々は「河内介の祟り」として恐れるようになったということです。
「田中河内介はいかがした?」
しかし、河内介がタブーとなった最大の理由は明治天皇でした。新政府の成立後、明治天皇が集まった臣下たちに「田中河内介はいかがした」と尋ねられましたが、薩摩出身者は答えることができず、押し黙ったままだったといいます。一説には、ある者が居合わせた大久保利通を指さし、「殺したのは大久保でございます」と告げたともいわれています。
いずれにせよ、明治天皇が慕った河内介を殺害したことが世間一般に知られるのは、薩摩にとって都合のよいものではありません。そんな訳で河内介の最後は「決して口外するべからず」とし、祟り話を広めることで河内介の存在そのものを葬り去ろうとしたのでしょう。そう考えると、明治天皇は西郷隆盛を「慕っていた」というエピソードも、なにやら薩摩閥のプロパガンダのように思えます。
河内介の遺体は流れ着いた小豆島の人々によって手厚く埋葬され、墓碑が建てられました。その小豆島には顕彰会が設けられ、河内介の実像を検証する作業も進められているようです。河内介をめぐる新たな歴史的評価を期待したいものです。
(黄老師)
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