【西郷従道を知る!】”小西郷”と呼ばれた西郷隆盛の弟

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【西郷従道を知る!】”小西郷”と呼ばれた西郷隆盛の弟

激動の幕末・明治期を生きた西郷従道(じゅうどう/つぐみち)。幕末史では兄の西郷隆盛の方が有名ですが、明治期には従道も大きな貢献を果たしました。2018年NHK大河ドラマ「西郷どん」では、錦戸亮さんが演じることで話題になったので、そこで初めて従道を知ったという方もいらっしゃるのではないでしょうか。

今回は西郷隆盛の弟として、陸海軍の功労者として、明治維新と新政府を支え続けた西郷従道の生涯についてご紹介します。

西郷従道の生い立ちから幕末期まで

薩摩藩に生まれた西郷従道は兄の隆盛や後の明治政府で重鎮となった人物たちに囲まれて育ちます。貧しい下士の出身だった従道の幕末までの生い立ちを見て行きましょう。

兄は西郷隆盛!その生い立ちと人物像

従道は天保14年(1843)に薩摩藩(現在の鹿児島県)の西郷吉兵衛の三男として誕生しました。長兄に維新三傑の一人である西郷隆盛、また従兄には同じく明治政府で要職を歴任した大山巌がいます。すぐ近所には大久保利通も住んでおり、従道は後の明治政府の重鎮達に囲まれながら育ちました。嘉永5年(1852)に両親と死別してからは、兄の隆盛が親代わりとなり、思想面においても大きな影響を受けたようです。
有村俊斎の薦めで薩摩藩主島津斉彬に出仕、茶坊主となりますが、文久元年(1861)に還俗。隆盛も参加する薩摩藩内組織の精忠組に加わり、尊王攘夷運動に打ち込みます。

幕末期の従道

寺田屋

当時、従道は精忠組内の尊王攘夷急進派に所属し、倒幕挙兵を行う計画を立てます。他の薩摩藩精忠組の急進派たちと京都で幕府高官を襲撃し、薩摩藩を否が応でも倒幕に傾けようとしたのです。しかし藩主の父として実権を握っていた国父・島津久光がこれを鎮圧します。これが有名な寺田屋事件です。結果、従道はまだ年が若かったために、帰藩の上、謹慎処分となりました。薩英戦争が起こると謹慎も解け、従道は決死隊に志願します。戊辰戦争にも参加し、鳥羽・伏見の戦いで銃弾が体を貫通するほどの重傷を負いながらも各地を転戦しました。

関連記事:【 島津久光 vs. 精忠組・有馬新七 】薩摩藩士の「寺田屋事件」とは?

明治政府での立場と活動とは?

戊辰戦争が終結し、明治政府が成立。その中で従道は、文部卿や海軍大臣などさまざまなポジションを歴任しますが、中でも日本陸軍と日本海軍の創設・増強に大きく貢献します。従道が創設に関わった日本陸海軍は日清戦争・日露戦争において勝利をおさめ、従道の功績は日本の戦争史を語る上で欠かせないものとなりました。

軍人として出世した従道

山県有朋
従道とともに渡欧した山県有朋

明治2年(1869)に従道は山県有朋とともに渡欧し、当時のヨーロッパの軍隊について視察・研究を行います。帰国後、従道は明治政府においてトントン拍子に出世し、兵部権大丞、陸軍少将、陸軍中将など重要なポストにつぎつぎと就いていきました。また台湾出兵では指揮を執り、台湾征討を断行。西南戦争勃発時は山県有朋の留守中、陸軍卿代理として職務を果たします。その後近衛都督、参議、陸軍卿などを務め上げます。

従道の功績

山本権兵衛
従道によって、海軍省官房主事となった山本権兵衛

内閣制度発足時、従道は初代海軍大臣に任命されます。有能な山本権兵衛を海軍省官房主事に抜擢し、海軍拡張に辣腕を振るわせたのは従道でした。従道は信頼する部下に一切の実務仕事を任せ、自分は口を出さずに責任を取るという姿勢を持った人物だったようです。それにより山本は才能をいかんなく発揮し、海軍参謀機関独立の実現や戦艦の増強などを行いました。従道のもと山本が整備した日本海軍は、その働きで日清・日露戦争において日本に勝利をもたらします。東郷平八郎が有名なバルチック艦隊を破ることができたのも、海軍大臣の従道と山本の仕事の成果ともいえるでしょう。

また総理大臣も務めた伊藤博文らがロシアとの妥協の道を探る中、日露戦争前からロシアとの対立は避けられないことを察知し、イギリスとの同盟を主張したのも従道です。結果、日露戦争時にイギリスは好意的中立を保ち、軍事や経済的援助などで日本の勝利を助けることになりました。

兄である隆盛との違いは?

西南戦争の図
西南戦争の浮世絵です

兄の隆盛と従道はその器量が大きいこと、何を考えているのか読みにくい性格などが似ていたとされています。しかし、彼らが新政府内で果たした役割は全く異なるものでした。共に育ち、維新を乗り越えてきた兄弟ですが、新政府設立後に起こる征韓論・西南戦争では立場に違いが表れていきます。

征韓論を巡って

維新後に隆盛や板垣退助が排日的鎖国下にある朝鮮への出兵を主張する征韓論を唱え政府と対立したのに対し、従道は積極的に兄に同調はしませんでした。征韓論が退けられ、隆盛と彼を慕う薩摩出身者の多くが政府を去り薩摩に戻る中、従道は明治政府に残ります。一説には隆盛の元に駆けつけようとして彼に止められたという話もありますが、政府側に立つスタンスを貫きました。

西南戦争で隆盛と袂を分かつ

兄の隆盛が明治政府に不平を持つ士族達と共に西南戦争を起こしたとき、従道はここでも隆盛にはつかず、前線にこそ立たなかったものの東京で政府軍を管理する立場に立ちます。兄の隆盛が明治政府発足後俸給を削られ、帯刀や名字などの特権を失った士族達に同情的な立場を取り続けたのに対し、従道は国全体のことを考え、西南戦争など士族の武装蜂起には協力しませんでした。隆盛は西南戦争で政府軍に敗れ自刃しますが、従道は明治政府に重きをなし、隆盛の分まで日本の発展のために奔走したのです。

軍人として頂点に!

日露戦争

陸軍・海軍の創設・整備、台湾出兵、日清・日露戦争戦勝への貢献などさまざまな功績を上げた従道は、明治27年(1894)に海軍大将に任命され、4年後には海軍軍人として初の元帥となります。内閣総理大臣こそ、兄・隆盛が逆賊であることを理由に断り続けたものの、文部卿、内務大臣などを歴任しました。明治期の日本に多大な貢献をした従道ですが明治35年(1902)に胃がんのためこの世を去ります。

後に「小西郷」と呼ばれた西郷従道。兄の西郷隆盛が有名ですが、その弟の従道もまた、維新期を代表する偉人の一人として歴史に名を残したのでした。

 

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