日本100名城に選定され、ユネスコの世界遺産リストにも登録されている姫路城。白鷺城(はくろじょう、しらさぎじょう)の別名をもつこの城を現在の姿に大規模修築したのが、戦国武将・池田輝政です。彼は、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康に仕え、播磨国姫路藩の初代藩主となりました。天下人に重用され続けた輝政とはどのような人物だったのでしょうか?
今回は輝政について知りたい人に向けて、織田家重臣としての活躍、秀吉に仕えてからの飛躍、家康のもとでの行動、輝政にまつわる逸話などについてご紹介します。
織田家重臣としての活躍
輝政が最初に仕えた君主は織田信長でした。これには生まれた家系が大きく関係していたようです。
織田信長の近習になる
輝政は、永禄7年(1564)池田恒興(いけだつねおき)の次男として尾張国清洲で誕生しました。幼名、古新。父・恒興はのちに清洲会議に出席したことでも知られる4人の織田家重臣のうちのひとりです。そのような家系にうまれたことから、輝政は信長のそばに仕える役(近習)となり、父や兄・元助とともに信長を支えました。
戦いで軍功をたてる
天正元年(1573)母方の伯父・荒尾善次(あらおよしつぐ)の養子となって木田城主に就任。信長に重用されていた荒木村重が謀反を起こした際は、有岡城の戦いで父とともに摂津倉橋に布陣、また花熊城の戦いでは北諏訪ヶ峰で戦いました。輝政はこれらの合戦で敵軍の武士5~6人を討ち取るという軍功をたてています。この働きは主君・信長に評価され、感状を授けられるほどでした。その後は兄とともに甲州征伐にも参戦しています。
豊臣秀吉の家臣に
本能寺の変で信長が死去すると、その後は秀吉の家臣として活躍します。輝政は秀吉のもとでさらなる躍進を遂げました。
美濃大垣城主から岐阜城主へ
天正10年(1582)の本能寺の変後、父兄とともに豊臣家に仕えた輝政は、京都大徳寺で行われた信長の葬儀で棺を担ぐという大役を任されます。その後、父が美濃大垣城主に、輝政が池尻城主に就任。天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いで父兄が討死すると、輝政は家督を継承して美濃大垣城主となり、その翌年には岐阜城主となりました。
輝政は秀吉の主要な戦いのほとんどに参加しており、紀州征伐、富山の役、九州平定のほか、小田原征伐や奥州仕置にも従軍。この功により東三河で15万2000石に加増されて吉田城主になるなど勢力を広げていきました。
厚遇を受けた輝政
吉田城主時代の輝政は豊臣秀次(秀吉の甥で豊臣家2代目関白)に付属していたと考えられており、文禄の役の際は秀次に近侍して国内の東国警衛に、朝鮮出兵に関しては大船建造や兵糧米の回送などに努めました。
また、輝政は秀吉から豊臣一族に準じて厚遇をうけていたようで、文禄3年(1594)には秀吉の仲介で徳川家康の娘・督姫(とくひめ)と結婚。秀次の失脚時には秀次の妻や妾の多くが殺害されたにもかかわらず、秀次の正室だった輝政の妹・若政所は助命されました。それほど輝政は秀吉に重用されていたといえるでしょう。
徳川家康への接近
やがて秀吉が死去すると、輝政は家康に接近していきます。家康のもとではどのような働きをしたのでしょうか?
石田三成と対立し……
秀吉死後に家康へと接近した輝政は、それ以降、福島正則、加藤清正といった武断派(秀吉政権下で軍務を担った派閥)の諸将とともに行動しました。これにより、文治派(同政務)の石田三成らと対立。両派の仲裁役だった前田利家が死去すると、秀吉の子飼いだった七将(福島正則、加藤清正、池田輝政、細川忠興、浅野幸長、加藤嘉明、黒田長政)の一人として石田三成襲撃事件を起こします。
この対立の延長上にある慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは徳川方として参加し、前哨戦の岐阜城攻略で福島正則とともに軍功をあげました。
初代姫路藩主に就任
関ヶ原の戦い後は、岐阜城攻略の功績により52万石を領し初代姫路藩主に就任します。当時これは8番目に高い知行で、輝政は国持大名として政治的な地位を獲得しました。その後も正則に次いで高い位に任官されるなど出世を重ね、初期の徳川政権において重要な政治的役割を担当。慶長6年(1601)からは姫路城の大規模改修に着手し、加古川流域の河川開発や下流域の都市開発などにも尽力します。
また諸大名らとともに江戸城や篠山城、名古屋城などの天下普請(土木工事)にも従事し、慶長14年(1609)には火災で失われた伊勢神宮の摩尼殿(まにでん)の再建にも貢献しました。
徳川家の信頼を得る
徳川家の信頼を得た輝政は、慶長16年(1611)二条城で行われた家康と豊臣秀頼との会見に同席し、翌年には徳川一門以外で初めて参議に任官されます。また松平姓を名乗ることを許され、松平播磨宰相と称されることもあったようです。
こうして徳川政権下でも盤石な地位を築いた輝政ですが、最後は脳卒中の後遺症から姫路で亡くなりました。輝政が病を患ったと知った家康は薬を遣わし、その死を知った秀頼の重臣らはがく然としたそうです。それほど輝政の存在は大きかったといえるでしょう。
輝政にまつわる逸話
天下人に重用され戦国の世を渡り歩いた輝政。そんな彼にまつわる逸話をご紹介します。
寡黙で寛容な人物だった
幼少期の輝政は潑剌(はつらつ)としており、成長とともにたくましくなりました。大人になってからの彼は口数の少ない人物で、物事にこだわらない寛容な性格だったようです。家康の命令による岐阜城攻めの際、輝政は正則と功名争いをしていました。この戦いで一番乗りの手柄を上げたのは輝政でしたが、最終的にはあっさりと功を譲ったといわれています。このような寛容さが信用につながり、ひいては重用につながったのかもしれません。
愛刀「大包平」は日本刀の最高傑作!
輝政は平安時代に活躍した古備前派の刀工・包平による太刀「大包平(おおかねひら)」を愛用していました。この刀は現存する日本刀のなかでも最高傑作といわれ、「童子切安綱(どうじぎり)」と並んで「日本刀の東西の両横綱」と例えられることがあります。江戸時代に池田光政が入手したという逸話がありますが、実際には輝政の代には池田家にあり、年中行事などに用いられていたようです。現在は国宝に指定され、東京国立博物館に収蔵されています。
明治維新まで繁栄した
織田家重臣だった輝政は、秀吉・家康と天下人のもとで次々と活躍しました。その厚遇ぶりからしても、輝政が家臣として十分に手腕を発揮していたことがわかるでしょう。幕府が変わりゆくなか活躍しつづけた輝政は、一族の繁栄の基盤を築いたといっても過言ではありません。五男・忠継、六男・忠雄、弟・長吉も合わせて一族で約100万石の大領を有するほど勢力を拡大した池田家は、明治維新にいたるまで繁栄しました。
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