【日本細菌学の父:北里柴三郎】その功績と人物像を振り返る

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【日本細菌学の父:北里柴三郎】その功績と人物像を振り返る

北里柴三郎は世界規模の偉業を成し遂げた人物です。医学者、細菌学者、教育者などさまざまな肩書きをもつ彼は「日本細菌学の父」として知られており、日本が世界に誇る偉人の一人といえます。
しかし医学に詳しくなければ、細菌学と聞いてもいまいちピンとこないかもしれません。実際にどんな功績を残したのか知らないという人も多いでしょう。
今回は北里柴三郎について知りたい人に向けて、その生い立ちや功績、人物像などについてご紹介します。

生まれから就職まで

まずは北里の生まれから就職までの時代を振り返りましょう。
世界的な功績を残した彼の生い立ちとはどんなものだったのでしょうか?

幼い頃から漢学者や儒学者に学んだ

北里は、嘉永5年(1853)熊本県阿蘇郡小国町で誕生しました。両親は庄屋を切り盛りしており、親戚の家に預けられた北里は厳しい教育を施されたといいます。漢学者の伯父からは『四書五経』を教わり、儒学者・園田保の塾では漢籍や国書を学びました。
その後は熊本に遊学し、明治2年(1869)細川藩の藩校・時習館に入寮。しかし翌年7月に廃止されたため熊本医学校に入学します。ここで教師・マンスフェルトと出会った北里は、本格的に医学の道を目指すようになりました。

内務省衛生局へ就職する

明治8年(1875)東京医学校(現在の東京大学医学部)へ進学。教授の論文に口を出していた北里は大学と仲が悪く何度も留年しましたが、明治16年(1883)には医学士となり、その後は内務省衛生局へと就職しました。
このころ北里は「医者の使命は病気を予防することにある」と確信し、生涯の仕事として予防医学を選び『医道論』を執筆しています。

医学界を驚かせた北里の研究

予防医学の道に進む決意をした北里は、留学先で目覚ましい研究成果を上げます。
それは世界的な発見となるものでした。

ロベルト・コッホに師事する

北里が師事したロベルト・コッホは、炭疽菌、結核菌、コレラ菌を発見した人物です。

明治18年(1885)同郷の緒方正規の計らいで留学した北里は、ドイツのベルリン大学でロベルト・コッホに師事し業績を上げます。コッホはドイツの細菌学者で、「近代細菌学の開祖」といわれる人物でした。2年後にベルリンを訪問した石黒忠悳(ただのり)陸軍省医務局長が医学界の権威であるペッテンコーファー氏の研究室へ異動命令を出そうとしたことがありましたが、コッホは北里に大きな期待を寄せており、それを感じた石黒は異動命令を取りやめたのだそうです。

世界初の破傷風菌純粋培養法に成功

明治22年(1889)北里は世界で初めて破傷風菌だけを取り出す「破傷風菌純粋培養法」に成功します。翌年には破傷風菌抗毒素を発見し、世界中の医学界を驚かせました。また、これらを応用した血清療法を確立。これは菌体を少量ずつ動物に注射しながら、血清中に抗体を生み出すという画期的な方法でした。

ノーベル生理学医学賞の候補に挙がったが…

「ジフテリアに対する血清療法の研究」で第一回ノーベル生理学医学賞を受賞したべーリング。

明治23年(1890)血清療法をジフテリアに応用した北里は、「動物におけるジフテリア免疫と破傷風免疫の成立について」という論文を同僚・ベーリングと連名で発表しました。これにより第1回ノーベル生理学医学賞の候補に挙がりましたが、共同研究者のベーリングだけが受賞。このとき北里が受賞を逃した背景には、さまざまな要因があると考えられています。
この論文をキッカケに大学や各国研究所から声がかかった北里ですが、目的は日本の医療体制の改善と伝染病から国民を守ることだとしてこれらを辞退。明治25年(1892)に国費留学を終えて帰国しました。

帰国後の活躍と功績

ドイツ留学から帰国した北里は、日本でもさまざまな功績を残しました。
ここでは帰国後の主な功績についてご紹介します。

伝染病研究所の所長になりペスト菌を発見

北里は福澤諭吉の援助によって設立された私立伝染病研究所の初代所長となりました。この研究所はのちに国の寄付によって内務省管轄の国立伝染病研究所(現在の東京大学医科学研究所)となり、北里は伝染病予防と細菌学の研究に取り組みます。そして明治27年(1894)政府の派遣によりペストが蔓延していた香港で、病原菌のペスト菌を発見しました。

私財を投じて私立北里研究所を設立

大正3年(1914)政府は北里に無断で伝染病研究所を文部省の管轄にし、東大の下部組織にする方針を打ち出しました。長年東大と対立していた北里はこれに反発して所長を辞任。私費を投じて私立北里研究所(現在の学校法人北里研究所で北里大学の母体)を設立します。北里はここで、狂犬病やインフルエンザ、赤痢、発疹チフスなどの血清開発に取り組みました。

慶應義塾大学医学部の発展に尽力する

大正6年(1917)亡くなった諭吉の恩義に報いるため、北里は慶應義塾大学医学部を創設して初代医学部長兼附属病院長に就任します。さらには医学部に北島多一や志賀潔といった北里研究所の名だたる教授陣を送り込み、自身は一生を終えるまで無給でその発展に尽力しました。
また、同年には全国規模の大日本医師会が誕生し、北里が初代会長に就任します。大正12年(1923)には医師法に基づく日本医師会となり、北里はその運営にあたりました。

北里はどんな人物だったのか?

北里は真摯に細菌学の発展に尽くし、さまざまな功績を残してきました。
そんな北里の人物像にまつわるエピソードを2つご紹介します。

野口英世とならぶ世界的な著名人だった

東京の上野公園にある野口英世像です。

北里は日本を代表する医学者として、野口英世と並んで世界的に有名でした。野口は北里研究所の研究員として勤務しており、北里とは形式上の師弟関係にあたります。
北里は門下生たちから「ドンネル先生(ドイツ語で雷親父の意味)」の愛称で親しまれていたようです。

予防医学の大切さを説いた努力の人

北里は『医道論』のなかで、医学の目的は人々の健康を維持し国を豊かにすることだと述べました。また、医者のなかには生計を目的に病気を治す者がいるため、これから医学を目指す人間はこのような悪い習わしをすてて医道の真意を理解すべきだ、とも警告しています。
予防医学の大切さを力説した北里の七言絶句(一句七言で四句からなる漢詩)には「何かを成し遂げようとするには一生の努力が必要である。不運にみまわれても嘆かず、困難に耐えてこそ男児だ」と書かれています。

近代日本医学の父が新千円札の顔に

感染症医学の発展に貢献し、日本近代医学の父ともいわれている北里。感染症治療が行えるようになったのも彼のおかげといえるでしょう。彼の伝染病研究所は、コッホの伝染病研究所とパスツール研究所とともに、世界三大研究所といわれています。
世界規模の研究成果をあげた北里は、2024年度から千円札の顔にもなります。残念ながらノーベル賞は逃してしまいましたが、この機会に改めてその功績を振り返ってみてはいかがでしょうか?

 

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