皆さんは、鎌倉幕府の歴代将軍の名を挙げられますか?
1.源頼朝-2.頼家-3.実朝、と源家三代のあと、4.藤原(九条)頼経-5.頼嗣の摂家将軍が立ち、さらに6.宗尊親王以下は親王将軍がつづきますね。
第3代将軍の実朝が横死したのは1219年(建保5/承久元)の正月のこと。執権の北条義時は、姉の政子(実朝の母)らと相談し、亡き頼朝の縁戚に当たる藤原(九条)道家の子息を、新将軍として鎌倉にもらい受けることにしました。のちの頼経ですが、当時はまだ三寅(みとら)と呼ばれる3才の子供でしたから、とても征夷大将軍には任官できません。いわば「将軍予定者」というわけです。
この様子を見ていた後鳥羽上皇は1221年(承久3)、幕府討伐の兵を挙げました。承久の乱のはじまりです。実朝が死んで源家が絶え、跡を継ぐべき三寅(頼経)には、まだ何の力もありません。武士たちにとっての主君である将軍がいない幕府など、ひと突きすればバラバラになる。後鳥羽上皇は、そう踏んだのです。
ところが、この時の鎌倉には、実朝の跡を引き継いで御家人たちを束ねる、「裏将軍」が存在していました。執権の北条義時? いえいえ。では、それは誰? 実は、この「裏将軍」の存在にこそ、鎌倉幕府という武家政権の権力構造を解き明かす、秘密が隠されているのです。
鎌倉幕府とはもともと、頼朝が東国の武士たちを率いて樹立した自治政府のようなものでした。1180年(治承4)の10月、武士たちとともに鎌倉に入った頼朝は、新しい町の建設をはじめます。そして12月12日、新造された御所の落成式が盛大に行われました。鎌倉幕府の正史である『吾妻鏡』は、その時の様子を次のように記しています。
「東国の者たちはみな頼朝の行いが道にかなっているのを見て、推して鎌倉の主とした」
どう読んでも、自治政府の樹立宣言ですね。
そののち頼朝は、1183年(寿永2)に朝廷から東国の支配権を認められ、1185年(寿永4/文治元)には平氏討滅をなし遂げます。さらには、諸国に守護と地頭を置くことを許され、1189年(文治5)には奥州藤原氏を討ち、1191年には右近衛大将に、1192年(建久3)にはついに征夷大将軍に任じられます。
こう見てくると征夷大将軍への任官は、朝廷が頼朝の支配力を追認した結果であることがわかります。将軍になったから武士たちを従えることができたわけではなく、武士たちを従えてうち立てた自治政府が、全国政権に成長してゆく中で、朝廷から立場を認められていったわけですね。では、頼朝の力の源泉はどこにあったのでしょう?
戦いを家業とする武士たちによってうち立てられた鎌倉政権は、もともとが軍事政権。その親分が頼朝です。つまり、主従関係を結んだ武士たちを、主君である頼朝は軍勢としてて動かすことができる。それが、頼朝の力の源泉でした。当時の記録にはよく、「鎌倉殿」という言葉が出てきます。鎌倉政権の首長、つまり武士(御家人)たちによって推戴される鎌倉の主、という意味です。
1199年(建久10/正治元)に頼朝が没して頼家があとを嗣いだ時、朝廷はすぐには頼家を将軍に任じませんでしたが、幕府の支配がゆらぐことはありませんでした。御家人となった武士たちが、頼家を「鎌倉殿」として推戴したからです。幕府と御家人たちにとって大切なのは、征夷大将軍という官職より「鎌倉殿」という立場の方だったのです。
さて、最初の話に戻りましょう。実朝の横死によって、幕府の内部はさすがにゴタゴタします。三寅が鎌倉に下向するのにも半年ほどかかりましたし、幼い三寅には何の力もありません。それでも幕府はバラバラにはなりませんでした。御家人たちに敬愛され、彼らの心をつなぎ止めるカリスマが存在していたからです。
その人物とは誰あろう、北条政子です。頼家・実朝の母であり、二人の息子を悲劇的に失ったにもかかわらず、毅然として幕府を支えてゆく政子の姿は、御家人たちの敬愛を集めていました。どんな勇猛な武士も母親の胎内から生まれてくることを、思い起こさせたからでしょう。
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一方、後鳥羽上皇が幕府追討の院宣を発したことを知った御家人たちは、激しく動揺しました。上皇軍が関東に攻め下ってきたとき、朝敵の烙印を押されてしまった自分たちに、勝ち目はあるのか。それならいっそ、北条義時の首を上皇軍に差し出して、生き残りをはかった方がよいのではないか。そう考えた者も、少なくなかったようです。
しかし、集まった御家人たちの前に三寅を抱いて現れた政子は、一喝しました。
「かつて武士たちは、都の貴族によってボロボロになるまで、こき使われていたではないか。そのくびきから解き放ってくれた亡き頼朝公の御恩を、お前たちは忘れたのか!」
御家人たちは、政子の言葉に心を打たれました。
かつて、頼朝とともに立ち上がった自分たちが、大きな犠牲を払いながらうち立てた、「武士の、武士による、武士のための政府」こそが鎌倉幕府であることを思い出したからです。翌朝、鎌倉を発した幕府軍のもとには御家人たちが続々と集まってきて、たちどころに大軍にふくれあがり、一気に上皇軍を蹴散らして都に攻め登ったのです。
朝廷が征夷大将軍を任命しなくても、幕府には御家人たちによって推戴される「鎌倉殿」がいました。このとき「鎌倉殿」の立場にあったのは、誰あろう政子だったのです。
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都の宮廷社会に育った後鳥羽上皇には、こうした武家政権の原理がわかっていませんでした。それゆえに、将軍のいない幕府など、たちどころに自壊すると考えて見通しの甘い戦争をはじめてしまったのです。結果は重大でした。後鳥羽・土御門・順徳の三人の上皇が流され、仲恭天皇の首もすげ替えられて、朝廷と幕府のパワーバランスは大きく傾くことになりました。
教科書にも年表にも、政子は鎌倉幕府の将軍としては登場しません。でも彼女は、まぎれもなく第4代の「鎌倉殿」として幕府を支え、承久の乱を勝ち抜いたのです。そうでなければ、日本に武家政権が根付くことはなかったかもしれません。政子こそは武家政権の母、といえそうですね。
[お知らせ]
鎌倉幕府の成り立ちが気になる人は、角川ソフィア文庫から絶賛発売中の西股総生著『戦国の軍隊』(960円)を読んでみよう。第二章で、頼朝旗揚げの意外な裏話や、武家政権の原理について書いていますよ。
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(KADOKAWA)
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