現在の鳥取県東部に当たる因幡にある鳥取城は、織田信長の命令を受けた羽柴(豊臣)秀吉によって天正9(1581)年に攻略され、「飢(かつ)え殺し」と呼ばれる兵糧攻めの末に陥落したことで知られています。この史上名高い「太閤の鳥取城攻め」が、失敗を教訓にして実行されたということをご存じでしょうか。
秀吉が2度にわたって攻めた鳥取城
あまり知られていませんが、秀吉は前年の天正8(1580)年にも鳥取城を攻撃しており、これは第1次鳥取城攻めと呼んで区別されます。
城方の大将は毛利氏の援助で城主となった因幡国守護の山名豊国(やまな・とよくに)。
戦いの詳細は明らかではありませんが、約3ヶ月間の籠城戦の後に豊国は降伏したようです。しかし、なんと降伏を潔しとしない家臣団によって追放され、単身で秀吉の陣中に逃れて臣従を誓ったとされています。
これ以前にも豊国は毛利氏と尼子氏の間で離反、臣従を繰り返していました。こう書くと、いかにも節操が無く、頼りがいのないリーダーのように思えますが、本当は戦上手で状況を冷静に分析できる有能な人物だったという見方もあります。
事実、秀吉は第1次鳥取城攻めでも兵糧攻めを行いましたが、豊国が指揮する城方は餓死者を出すことなく持ちこたえました。
堅固な守りに攻めあぐねた秀吉が好条件での和議を申し出たとも、娘(正室という説もあり)を人質にして降伏を迫ったともいわれています。また一流の教養人だった豊国、先進的な秀吉軍の陣構えを目の当たりにして「毛利氏では信長に敵わない」と確信し、降伏に傾いたのかもしれません。
さて、豊国を追い出した鳥取城の家臣団は、徹底抗戦のため文武両道に優れていたとされる武将・吉川経家を毛利氏から迎えて新しい城主とします。しかし、一方の秀吉も前回の反省を踏まえて周到に策略を巡らせました。事前に商人を乗り込ませて兵糧米を含む城下の米を高値で買い占めた上、城を包囲する時には周辺の農民を城内へ追いやり、ただでさえ乏しい兵糧が早く尽きるように仕向けたのです。
こうして第2次鳥取城攻めは始まりました。
城方は第1次鳥取城攻めとほぼ同じ約100日間の籠城戦に耐えたのですが、比較的早い段階で兵糧は無くなり、城内は阿鼻叫喚の飢餓地獄となりました。そのころ豊国はどうしていたかというと、旧家臣たちが籠もる城を包囲する秀吉の軍勢にちゃっかり加わっていたのです。
この籠城戦はあまりに凄惨だったためか、鳥取城周辺では現在でも不気味な現象が起こるそうです。
やせ細った農民が茂みの中に立っていたり、甲冑が擦れるような音が後ろから近づいてきたり、風に混じってうめき声が聞こえてきたり・・・などなど。このため地元の人たちは夕方以降、決して近づかないといいます。
明暗分かれた山名豊国と吉川経家
鳥取城陥落後の豊国は、浪人を経て徳川家康に仕えます。
有職故実に精通する豊国は厚遇され、関ヶ原の合戦後、山名家ゆかりの地である但馬に6700石を与えられ、寛永3(1626)年に79歳で死去しました。
戦国時代をしたたかに生き抜いた豊国ですが、現在の鳥取では評価が低く、ほとんど語られることがありません。
部下を助命しようと開城後に切腹した吉川経家を「武士の鏡」として慕い、等身大の銅像を建て顕彰しているのとは対照的です。
しかし、時代の流れを的確に読んで家名を存続させた豊国の方が成功者とも言えるわけで、その処世術に学ぶべきところは少なくないように思えます。
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