明治時代の日本で元老として強大な権力をふるい、「日本軍閥の祖」との異名を持つ山県有朋。明治維新後に活躍した偉人の中では正直、あまり人気のない彼ですが、当時は国民からも好かれていなかったようで…愚直ゆえに嫌われた?山県有朋の人物像に迫ってみたいと思います。
国葬なのにスカスカ!?
山県有朋は明治22年(1889)、陸軍軍人として初めて内閣総理大臣に就任し、その後元老となります。日露戦争での日本の勝利にも貢献したとされ、明治政府では絶大な権力を握っていました。
大正11年(1922)2月1日、83歳で病没。政府はその功績から葬儀を「国葬」としましたが、参列したのは陸軍や関係閣僚らのみ。1カ月前に亡くなった大隈重信の葬儀が「国民葬」でありながら、約30万人もの一般参列者があったことに比べると寂しいものでした。当時の新聞にも「幄舎の中はガランドウの寂しさ」と書かれたとか…。
どうして好かれていなかった?
山県はなぜ、人気がなかったのでしょうか?
ひとつは藩閥政治と呼ばれるもの。山県は人材を見つけると要職に就け、見捨てることをしませんでした。それは長所でもありますが、見方を変えれば自分と同じ長州藩出身者ばかりを優遇しているように思われ、「長州閥」として敵視されたのです。実は、官僚には様々な地域の出身者を据えてもいるのですが…。
もうひとつは、日本で初めての汚職事件に関わったとされていることです。
明治5年(1872)、陸軍省から莫大な無担保融資を受けた御用商人が、それを返済できず自殺した山城屋事件で、当時陸軍中将だった山県の関与が疑われました。実際、山県はこの件で辞任しています。ただ真相は闇の中で、一説には西郷隆盛を味方につけている山県への嫉妬があったともいわれ、西郷は山県の辞任に最後まで反対していました。
西郷に自決を勧める手紙を送る
山県は明治2年(1869)、西郷隆盛の助力を得ながら日本の軍制改革を行い、徴兵制を導入します。この時、山県と薩摩藩出身者との間で対立が起こるのですが、西郷は山県を擁護し、見守り続けたといいます。
明治6年(1873)、山県は陸軍卿となり参謀本部を設置するなど、日本陸軍の基礎を築きます。
しかし、明治10年(1877)に西南戦争が起きると、山県は官軍の総指揮をとり、西郷と対立することになってしまいます。圧倒的な武力で薩摩軍を制圧した山県は、城山に立てこもる西郷に自決を勧める手紙を届けました。そこには、西郷と戦うことになるとは思っていなかった、この戦が西郷の本意でないことは知っているなどと書かれていたそうです。盟友・西郷への無念の思いが感じられますね…。
愚直ゆえに嫌われた?
一度目をかけた人物を決して見放さなかったという山県。愚直で優しいところもありながら用心深く、奇兵隊として馬関戦争に参加していた折り、志士たちがフグを食べていたのに、ひとり離れて鯛を食べていたとか。そのためか、外交にも慎重で協調路線。日清・日露戦争でも回避策を模索したようで、最近では、今までのイメージを見直そうと評価が高まっているそうです。
また、和歌を詠むなど風流な趣味を持ち、東京の椿山荘や、小田原の古稀庵など、見事な日本庭園をいくつも造らせました。鹿鳴館などの西洋建築が流行していた当時としては珍しいことです。また、栃木にある山県農場は彼がひらいたもので、土地を持たない農民が自作農になるよう育てたといいます。
愚直ゆえ、周りの評価を考えず嫌われてしまったのかもしれない山県。「嫌われ者」のレッテルを少し剥がして、見つめ直してみてはいかがでしょうか?
(編集部)
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