幕末から明治の動乱期には、数多くの暗殺事件が起こりました。この暗殺を手掛けていたのが、“人斬り”と呼ばれる人物たちです。幕末にその名を馳せた人斬りたちは、どのような人物だったのでしょうか。彼らを狂気の暗殺へと走らせたのは、どんな動機なのでしょうか。今回は、幕末史に残る“四大人斬り”の人物像から、彼らの人生、斬られた人たちについてご紹介していきます。
幕末四大人斬りとは?
幕末の京都では「天誅(天に変わって成敗するという意味)」といわれる、殺人を正当化するような思想が横行し、多数の暗殺事件が起こりました。
そのため、さまざまな人物が暗殺者として要人暗殺に手を染め、実に多くの人物が命を落としていたのです。
そんな時代に、幕末四大人斬りとして恐れられたのが、
- 田中新兵衛(薩摩)
- 河上彦斎(熊本)
- 岡田以蔵(土佐)
- 中村半次郎(薩摩)
の4人でした。
天誅の先駆けといわれる田中新兵衛
四大人斬りの一人である田中新兵衛ですが、彼は武家の出身ではありませんでした。
諸説ありますが、船頭の子、もしくは薬種商の子ともいわれています。
どのような剣術を使ったかについても不明で、薩摩藩士ではないものの薩摩出身であることから、薩摩示現流の分派である可能性が高いとされています。
田中新兵衛は土佐勤王党との関わりが深く、党首である武市半平太と意気投合し、義兄弟の契りを結ぶほどの仲でした。また、岡田以蔵を始めとした志を同じくする者と徒党を組み、集団で暗殺を繰り返していたとされています。
多くの人物を斬り続けた新兵衛
田中新兵衛は、安政の大獄で尊王攘夷派や活動家を一斉に検挙した島田左近を暗殺しました。一度は暗殺に失敗した新兵衛でしたが、その後1ヶ月間にわたって左近を付け回し、最後は加茂川の河原まで追いかけて斬首、先斗町でさらし首としたそうです。これがいわゆる「天誅」の先駆けとされています。
その後も、同じ尊王攘夷派の本間精一郎や、町奉行の役人である渡辺金三郎、大河原重蔵、森孫六、上田助之丞といった人物を暗殺したといわれています。
謎が多い新兵衛の最期
田中新兵衛は、公家の姉小路公知が暗殺された「朔平門外の変」ののち、現場に新兵衛の刀と薩摩下駄が残されていたことから、犯人と断定されていた仁礼源之丞らとともに捕縛されました。この時、町奉行の取り調べを待たず、新兵衛は隙をついて持っていた脇差で割腹するとともに、喉を切り自害します。
この事件は謎が多く、真相は解明されていません。新兵衛の刀が数日前に盗まれていたとされることや、襲撃の手際の悪さなどから、新兵衛の犯行なのか疑問視されてきました。ですが、近年の研究では、田中新兵衛を実行犯とする説が有力になっています。
緋村剣心のモデルとなった河上彦斎
河上彦斎は、人気漫画「るろうに剣心」の主人公で人斬り抜刀斎の異名を持つ緋村剣心のモデルとして、ご存じの方も多いのではないでしょうか。
河上彦斎は肥後細川藩熊本城下に生まれましたが、次男だったため、11歳のときに河上家へ養子に出され、藩校で学問と剣術を学びました。16歳のころに城勤めをするようになり、掃除坊主として藩主に仕えています。その後、国老附坊主という身分まで出世したそうです(ここでいう坊主は僧侶のことではなく、武士階級の呼称)。
剣術は我流であったと伝えられていますが、伯耆流居合(ほうきりゅういあい)を修行していたという説もあります。
尊皇攘夷の思想を受けて…
彦斎は、このころ藩に召し抱えられていた宮部鼎蔵と出会い、尊王攘夷派の思想に影響をうけます。同じ肥後藩の志士の中には、脱藩して上京しようとした者も多くいましたが、宮部と彦斎は藩命で上京できるようひそかに朝廷へ裏工作を行いました。これが実を結び、朝廷から熊本藩へ京都警護要請が下ったことで、二人は上京することになりました。
その後、文久3年(1863)「八月十八日の政変」という、公武合体派が尊王攘夷派を京都から追放したクーデターが起こりました。この事件をきっかけに公武合体派が勢力を盛り返し、長州藩は三条実美を始めとする7人の尊皇攘夷派の公卿が京都を追われる事態に。このとき彦斎は熊本藩を脱藩し、長州へ向かいます。この折に三条実美の警護を務めたそうです。
ところが翌年元治元年(1864)、京都に潜伏していた宮部鼎蔵が6月の池田屋事件で新選組に討たれてしまいます。その後、彦斎はふたたび京都の地へ向かいました。
慶応3年(1867)、彦斎は熊本藩の藩論を変えるために帰藩しますが、すでに熊本藩の実権は佐幕派に握られていたため、投獄されてしまいます。獄舎から出られたのは慶応4年(1868)の2月だったため、大政奉還や王政復古の大号令、そして鳥羽・伏見の戦いの際は獄中で過ごしました。
明治政府から疎まれたゆえに
時代が明治となり、明治政府が成立すると、攘夷論を掲げている彦斎の存在を疎ましく思う人たちがあらわれます。さらに彦斎が、同じ思想を持っていたはずの木戸孝允(桂小五郎)や三条実美の心変わりを追及。このことがきっかけとなり京都の要人は彦斎と会うことすらしなくなったようです。
その後、明治政府から思想的な危険人物と判断され、明治4年(1872)の1月に日本橋小伝馬町の処刑場で斬首となりました。
佐久間象山の暗殺に成功するも?
人斬りとして有名な河上彦斎ですが、意外にもその暗殺で記録に残っているものは一件、佐久間象山の暗殺のみです。
当時洋学の第一人者だった佐久間象山は公武合体派の開国論者であったことや、自信過剰な性格だったこと、くわえて馬に西洋の馬具をつけて乗り歩いていたなどの行動から、尊皇攘夷派から命を狙われていました。
彦斎の佐久間象山暗殺にはさまざまな説があります。暗殺の動機は、象山が長州追放や池田屋事件に関わっていた、たまたま道で居合わせたなどがあり、はっきりとした理由は判明していません。
ですが、彦斎は後に象山の業績を知り「取り返しのつかないことをした」と後悔し、人斬りを止めてしまったといわれています。
「人斬り以蔵」で知られる岡田以蔵
岡田以蔵は土佐藩の下級武士である郷士の家に生まれました。
1862年、土佐勤王党の党首である武市半平太が、公武合体派で土佐藩の実権を握っていた吉田東洋の暗殺を行いました。国内の政治の流れが尊皇攘夷に向いたこともあり、土佐勤王党は強い力を持つようになっていきます。
岡田以蔵はそんな武市のもとで多数の暗殺を繰り返していました。剣術は相当な腕前だった以蔵ですが、学はなかったようで、土佐勤王党結成時の血判状から彼の名前が消されていたことなどから、武市に勢力拡大のための手駒として扱われていたと考えられています。悪くいえば、「いいように使われていた」といえるでしょう。
しかし、文久3年(1863)に京都で起こった八月十八日の政変後、土佐勤王党の勢力は衰えていきます。その後、土佐勤王党と疎遠になった以蔵は、坂本龍馬の紹介で京都に滞在していた勝海舟の護衛をしたこともあったようです。そのため以蔵は、坂本龍馬とも親しい関係であったと推測されています。
27歳の若さで打ち首・獄門に
以蔵は元治元年(1864)の6月頃に、商家への強盗の罪で幕吏に捕縛されました。このときは変名である土井鉄蔵と名乗っています。その後は京洛追放となりますが、そこを土佐藩の藩吏に捕まり、土佐へ送られました。
土佐藩は、吉田東洋暗殺および、京都での一連の暗殺事件実行犯捕縛のため、土佐勤王党の党員を次々と捕らえていました。以蔵も拷問をうけ、やがて自分の罪状や暗殺した人物の名前を自白。これが引き金となり、土佐勤王党党員は次々と処刑されていきます。岡田以蔵も、慶応元年(1865)に打ち首、獄門となりその生涯を終えました。
最も多くの人物を斬ったとされる以蔵
暗殺した人物は数多く、関わったことが確実なものだけでも、井上佐市郎、本間精一郎、文吉、渡辺金三郎、森孫六、大河原重蔵、上田助之丞、池内大学ら8名に及んでいます。
幕末の京都は非常に多くの暗殺事件が起こっていたため、以蔵が関わっていた事件がまだあるのではないかともいわれています。
「人斬り」として恐れられた中村半次郎
中村半次郎(明治のころからは桐野利秋と名乗る)は薩摩藩の武士である中村与右衛門の次男として生まれました。
半次郎は薩摩藩の武士であるため、示現流や野太刀示現流の道場に通っていたとされています。
しかし、父が島流しにあい、その頃に兄も亡くなったため貧乏な生活をしており、剣の形や流儀は独習によるものだったと伝えられています。
文久2年(1862)半次郎は西郷隆盛とともに島津久光に従い、京都へ行きます。半次郎はそこで諸国の志士たちと関わるにつれ、倒幕の思想を持つことになったようです。半次郎はきちんとした政治的ビジョンを持っていた人物でもあったため、明治政府では陸軍少将・熊本鎮大の司令官・陸軍裁判所所長といった役割も担いました。
最期は銃弾に倒れる
西郷が政府を去ると、それに伴って半次郎も政府を去り、やがて西南戦争が起きます。この戦争の主導権は主戦論者の一人である半次郎が握っていた、ということが定説となっています。そして明治10年(1877)、西南戦争で半次郎は銃弾に倒れ、戦死しました。
師であった赤松小三郎を暗殺
血気盛んな半次郎には血なまぐさい噂はいろいろとありますが、慶長3年(1867)9月に赤松小三郎を暗殺した事件が記録として唯一残っています。
当時の赤松小三郎は薩摩藩でイギリス式兵学を教えていましたが、出身地の上田藩の要請により、帰藩しようとしていたところでした。赤松は薩摩の内情に詳しく、「幕薩一和」という薩摩と幕府を和解させようとする思想を持っている人物。赤松に師事していた半次郎でしたが、赤松が幕府に味方する可能性もあるため、帰る直前に暗殺を行うことを決めます。この暗殺には西郷の反対もありましたが、半次郎は「敵方に先生がいると本気で戦えない」という言葉を伝え、赤松と絶縁の盃を交わしました。
こうして半次郎は、薩摩の軍事機密漏洩を防ぐためという理由をつけて、暗殺を強行しました。当時の薩摩藩は赤松を重用していたこともあり、この事件について公言することを避け、真相は解明されていませんでした。そんな中、昭和47年(1973)に中村半次郎の『在京日記』の一部が発見されたことで、真相が明らかになったという経緯があります。
人を殺めたのも彼らの中では正義だった…
現代でこそ、“人斬り”という二つ名で呼ばれている4人ですが、例えば岡田以蔵は、同時代の人間からは「天誅の名人」と呼ばれていました。人斬りという呼称は、後の世になってつけられ、池波正太郎や司馬遼太郎などの小説によって広く知られるようになったのです。
彼らは多くの人を殺めましたが、それはそれぞれに日本の将来を憂い、自分の正義に従っておこなった行為だったのです。
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