2019年のNHK大河ドラマ『いだてん~東京オリムピック噺~』では、落語の神様と呼ばれる5代目:古今亭志ん生(ここんていしんしょう)役を森山未來さん・ビートたけしさんが物語の語り手として務めます。
落語は日本独自の芸能といえますが、現代ではなかなか馴染みがないかもしれません。神様と呼ばれた5代目:志ん生は波乱万丈な人生を送ったことでも知られています。
そこでここでは、5代目:志ん生がどのような人生を送ったのか、彼の芸風や代表作、残された逸話についても併せてご紹介します。
5代目:古今亭志ん生の生涯
稀代の落語家はどのような人生を歩んだのでしょうか。まずは5代目:志ん生の生涯について振り返ります。
生まれと落語界に入るまで
明治23年(1890)5代目:志ん生は、東京市神田区神田亀住町(現在の東京都千代田区外神田)で五男として生まれました。菅原道真の子孫とされる徳川直参旗本・美濃部家の血筋で、祖父は赤城神社の要職も務めていましたが、父の代で明治維新の際の支給金をすべて使い果たしてしまい、その家柄に反して貧乏暮らしだったようです。小学生のとき素行の悪さが原因で退学となり、その後は奉公先を転々としますが、最終的には浅草に本籍を移しました。
そんな幼少期を過ごした彼は、やがて博打や酒に手を出すようになり、放蕩(ほうとう)生活の末に家出します。その頃から天狗連(素人やセミプロの芸人集団)に出入りするようになり、三遊亭圓盛(えんせい)の門でセミプロとして三遊亭盛朝を名乗るようになりました。
明治43年(1910)頃に2代目:三遊亭小圓朝に入門して三遊亭朝太と名乗り、大正5~6年(1916年~1917)頃に三遊亭圓菊を名乗って「二つ目」になります。二つ目とは、前座と真打の間に位置する落語家のことです。この二つ目になって、ようやく紋付の着物の着用が許され、落語家社会の中で一人前として認められます。そして、大正7年(1918)には4代目:古今亭志ん生の門に移籍して金原亭馬太郎に改名、その3年後には金原亭馬きんとして真打に昇進しました。
下積み時代と志ん生襲名
天才落語家といわれる彼も、最初からそう呼ばれていたわけではありません。大正11年(1922)に清水りんと結婚して子供にも恵まれましたが、それでも売れずに下積みを続けていたのです。
3代目:古今亭志ん馬を名乗るようになっていた志ん生は落語界の実力者だった5代目:三升家小勝に反発して居場所を失い講釈師に転身しますが、やがて謝罪して落語家へと戻ります。しかし、生活は苦しく、人気者だった柳家金語楼の紹介で入った初代:柳家三語楼の門では、師匠の羽織を質に入れて再び立場が悪くなってしまいます。なんとか詫びて復帰した志ん生でしたが、前座同然の扱いだったため貧乏生活に拍車がかかりました。この当時から志ん生は腕があり、一部からは評判を得ていましたが、愛嬌がなく身なりも悪かったため、「死神」「うわばみの吐き出され」といったあだ名で呼ばれるなど、仲間たちから軽んじられていたのです。
そんな彼に変化が訪れたのは、昭和7年(1932)に再び3代目:古今亭志ん馬を名乗りだした頃のこと。長らく苦労を強いられた志ん生でしたが、この頃からようやく売れ始めます。昭和9年(1934)7代目:金原亭馬生を、昭和14年(1939)には5代目:古今亭志ん生を襲名し、その2年後からは神田花月で月例の独演会を開始するなど才能が開花していきました。
落語協会会長就任と病気療養
昭和20年(1945)陸軍から慰問芸人の取りまとめの命令を受けた志ん生は、6代目:三遊亭圓生、講釈師の国井紫香、夫婦漫才の坂野比呂志らとともに満州に向かいます。しかし、そのまま終戦となったため帰国できなくなり、引き揚げ船を待ちながらギリギリの生活を送ることになりました。
ようやく帰国できたのは昭和22年(1947)のことでしたが、これがニュースに取り上げられて注目されると、一気に人気が爆発して売れっ子となります。人形町での独演会も開催され、志ん生は8代目桂文楽とともに東京の落語家の代表として全盛期を迎えたのです。昭和32年(1957)から昭和38年(1963)にかけては、落語協会4代目会長にも就任しています。
しかし、良い事ばかりではありませんでした。昭和36年(1961)読売巨人軍の優勝祝賀会に呼ばれた志ん生は、公演中に脳出血で倒れてしまいます。3カ月の昏睡状態を経てなんとか復帰したものの、その後は以前の型破りな芸風が薄れていたそうです。療養後の志ん生は半身不随になっており、講談で使用する釈台を置き、そこに左手をついて座を務めました。
高座引退と最期
昭和43年(1968)10月9日の精選落語会が、志ん生の最後の出演となりました。これは事実上の引退でしたが、本人は少し休んで復帰する意思もあったようです。
昭和46年(1971)妻が逝去すると、続けて8代目:文楽もこの世を去り、その訃報を聞いた志ん生は号泣したといいます。そして昭和48年(1973)、志ん生もついに83歳でその生涯に幕を下ろしました。文京区小日向の還国寺にある墓所には、息子の3代目:志ん朝もともに眠っています。
志ん生の芸事と残された逸話
波乱万丈な人生を送った志ん生にはさまざまなエピソードが残されています。5代目:志ん生の芸事と彼にまつわる逸話についてご紹介します。
天衣無縫といえる芸風
売れない頃の志ん生の芸風は、6代目:三遊亭圓生や宇野信夫、坊野寿山らによると、「うまいけれど売れるとは思えない芸」「噺はうまくない」「しゃべり方がとても速い」「セカセカしてさっぱり間がとれない」といった評価でした。しかし、売れるようになるとこの評価も少し変化したようで、「芸の幅が開けた」「人間はズボラだったが芸にウソはなかった」「小さく固まらなかったから、その芸がなんともいえない独特の芸風にふくらんだ」と好感触なものになっています。
志ん生の公演は出来栄えの幅が激しかったものの、そこがいかにも彼らしいと思われていたようです。完成された5代目:志ん生の芸風は天衣無縫といえるものでしたが、売れない期間が長かった分、苦労してその芸風を作り上げたことがわかります。
代表作はこの3つ
志ん生の代表作には、「黄金餅(こがねもち)」「富久(とみきゅう)」「火焔太鼓(かえんだいこ)」などがあります。
「黄金餅」はケチな僧侶の遺産を奪おうとする主人公を描いたもので、演じるのが難しいといわれている演目。「富久」は初代:三遊亭圓朝による作品で、東京名物である「富くじ」と「火事」を取り上げた噺です。実話から落語化したもので、名人級以外は扱わなかったほどの極付とされています。
また「火焔太鼓」は江戸時代から伝わるもので、初代:三遊亭遊三が明治末期に膨らませて演じたものを修行時代の志ん生が覚え、昭和初期に新作と同等に仕立て直しました。この話は商売下手の古道具屋・甚兵衛が古く汚い太鼓を安く仕入れたところ、巡り巡って殿様に気に入られ300両という大金で売れたというものです。甚兵衛は次の仕入れも音のするものがいいとして、今度は半鐘(はんしょう)を買ってくると言いますが、それを聞いた女房が「半鐘はいけないよ。おジャンになるから」と言って終わります。「おジャン」とは江戸ことばで「フイになる(失敗する)」ことをいい、火事が鎮まる際に「ジャンジャン」と二度打って知らせたことから「終わり」を意味しています。なんとも粋なオチになっているわけですね。初代:三遊亭遊三の演出では、実際に半鐘を買ったところ近所の人間が店に乱入し、道具がメチャメチャになって儲けがおジャンになるという悲劇になっていました。それを現在のようなシャレのきいた形にしたのは5代目:志ん生です。
舞台で居眠り!?ズボラで知られていた
志ん生はズボラな人間として有名でした。酔って高座を務めたり時間通りに来なかったり、果てには自分の独演会に来なかったといった仰天エピソードまで残されています。また、舞台で居眠りしたこともあったそうです。
しかし、親しく交流していた小山観翁によると、ラジオ収録の仕事では酔っていたり遅刻してきたりといったことは一度もなく、録音する演目の時間を事前に計って録音時に調整するという丁寧な仕事ぶりだったそうです。どうやら志ん生は、敢えて天衣無縫に見える技を心得ていたようです。
酒にまつわる逸話
大の酒好きである彼は、酒にまつわる逸話もたくさん残しています。関東大震災の際、志ん生は酒が地面にこぼれるといけないからと、真っ先に酒屋へ駆け込んで酒を買ったそうです。しかし、酒屋の主人にとってはそれどころではありません。結局タダで1升5合も飲んで泥酔して帰宅したところ、長女を妊娠中だった妻に大層怒られたのだとか。
銀座数寄屋橋で飲んだ際は、土産のビールを持って帰宅中に空襲が始まり、「ここで死んだらせっかくもらったビールがもったいない」と全部飲み干したといいます。また満州で終戦を迎えたときは、未来を悲観して強いウォッカを飲み干し、数日間意識不明になったそうです。
戦後の東京落語界を代表する人物
売れずに苦労した時代があったものの、5代目:志ん生は落語協会会長に就任したり数々の賞を受賞したりと大器晩成型でした。彼は戦後の東京落語を代表する人物の一人としても有名で、死後その名は空き名跡となっています。
『いだてん~東京オリムピック噺~』で森山未來さん・ビートたけしさんは、どんな志ん生を創り上げるのでしょうか。きっと型破りで、見る人・聞く人を魅了する素敵な人物になるのでしょうね。
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