幕末、京都の町の治安維持のために、京都守護職の松平容保お預りとして誕生した新選組。最大で200人を超える隊士で構成された武装治安部隊の一番隊組長で、撃剣師範を務めていたのが沖田総司です。剣術の流派は近藤勇、土方歳三と同じ天然理心流(沖田家累代墓碑には北辰一刀流免許皆伝とも記されている)、三段突きを得意とし、新選組では二番隊組長の永倉新八、三番隊組長の齋藤一と共に三強といわれ、永倉は沖田を「猛者の剣」と評していました。幕末の天才剣士・沖田総司はその腰にどのような刀を差して、芹沢鴨暗殺や池田屋事件で活躍したのでしょうか。今回は、沖田総司の愛刀とともに、その最期についてご紹介していきます。
沖田総司の刀帳
史料や伝聞によると、沖田総司は3本の刀を使っていたとされていますが、実際のところ、その確証はありません。ここでは、沖田が使ったとされる3本の刀についてご紹介します。
加州清光(かしゅうきよみつ)
加州清光は加賀国(現在の石川県)の刀鍛冶・加州金沢住長兵衛藤原清光が打った名刀です。清光は、加賀藩第4代藩主の前田綱紀(まえだつなのり)時代に窮民収容所(現在のホームレス支援センター)に住んでいたため「乞食清光」とも呼ばれています。
加州清光は、沖田総司が池田屋事件で、長州過激派を襲撃した際に帯刀していたと伝えられています。戦闘中に加州清光の切っ先が折れて、刀鍛冶へ修理に出したものの、修理不能と返却された記録が残りました。
大和守安定(やまとのかみやすさだ)
大和守安定は紀伊国出身で、江戸時代の武蔵国の刀工です。安定の刀は茎に裁断銘(江戸時代に刀の切れ味を試した時に、どこまで切れたかを記録したもの。罪人の死体を重ねて3人切れたら三つ胴、5人切れたら五つ胴など)が多くあり、切れ味が抜群に良かったそうです。
この切れ味の良さから、同じ新選組の監察方・大石鍬次郎(おおいしくわじろう)や箱館戦争の遊撃隊隊長・伊庭八郎(いばはちろう)も使用していたといわれています。
菊一文字則宗(きくいちもんじのりむね)
備前国(現在の岡山県)の刀工で福岡一文字派の開祖。後鳥羽上皇の御番鍛冶の中で第1位に遇されたといわれるほどの名工です。後鳥羽上皇の皇位の紋である16弁の菊紋を銘に刻むことを許されたので、菊の紋が入った一文字派の刀は「菊一文字」と称されるようになったと伝えられています。ただ、菊一文字と称されただけで、菊一文字といわれる刀を打ったという記録はなく、このため、則宗の打った刀で菊の紋があるものを総称して「菊一文字」と呼ぶようになったようです。
しかし、この菊一文字は江戸時代の大名ですら入手困難だったといわれるほど希少価値があり、また非常に高価であったため、一剣客であった沖田総司が手にしていたとは考えにくく、「新選組始末記」を書いた子母澤寛 (しもざわかん)の創作という見解が一般的です。
沖田総司の最期
沖田総司といえば、喀血しながら相手を斬った場面がテレビや映画で見られるため、肺結核を患っていた印象が強くなっています。「池田屋事件」を扱った小説や映画では、攘夷志士との斬り合いの最中に喀血し、手を赤く染める沖田が描かれていますが、昏倒した記録はあっても喀血したとの記録はなく、この時期に肺結核を患っていたかどうかは真偽不明です。
沖田総司はいつまで戦っていたのか?
「池田屋事件」の後も、「禁門の変」など新選組の出動記録に沖田総司の名前があり、肺結核を患っていたとしても症状は軽かったと推測できます。沖田の結核が重症になったのは、現在では慶応3年(1867)ごろと考えられており、この頃には戦闘に耐えられなかったとの伝聞が多く残されました。明治元年(1868)「鳥羽・伏見の戦い」での敗戦後には、江戸で戦闘に参加しますがすぐに落後しており、この頃には療養に入ったと考えられています。
沖田の最期の地は植木屋だった
沖田総司は、近藤勇が流山で投降し斬首されてから、2カ月後の1868年7月19日にこの世を去りました。肺結核または、それによる多臓器不全などが死因と考えられています。沖田は近藤の死を知っていたのか、知らなかったのか、今もその真偽はわかりません。
ですが、近藤の投降により、新選組の残党への取り締まりが江戸から東国にかけて厳しくなっていたことから、沖田の療養も困難なものだったようです。江戸では第14代将軍の家茂の侍医を務め、近藤や土方歳三とも懇意にしていた松本良順(まつもとりょうじゅん)の世話で、千駄ヶ谷の植木屋にかくまわれて療養します。この植木屋の離れが沖田、最期の地となりました。
刀の行方の謎
沖田総司の死後、彼の愛刀だったとされる3本の刀は、それぞれどうなったのでしょうか?
菊一文字則宗についてはフィクションとされており、実際は持っていなかったと考えるのが妥当かもしれません。沖田が所有していた刀の1本が姉のみつに渡され、これを彼女が神社に奉納したとされていますが、その神社がどこなのかは不明。この刀が菊一文字則宗だったという説も存在しますが、刀が現存していない以上、仮説の域を出ていません。
大和守安定に関しても、刀が現存していないため、沖田が使った刀なのかも、実際は定かではありません。
ただ、沖田が山南敬助(さんなんけいすけ)を介錯したときの刀が、大和守安定であるという説もあり、このことから“沖田の愛刀”に加えられています。
加州清光は、切っ先が折れて修理不能になった時点で破棄されたと考えるのが妥当で、沖田総司が江戸までこの刀を持ってきていたと考えるのは無理があります。加州清光は京都で破棄された可能性が高く、こちらも現存していません。
謎に包まれたまま…
沖田総司の生年ははっきりしておらず、天保13年(1842)ではないかといわれていますが、立証はされていません。1842年生まれだとすると、弱冠20歳ほどで新選組の一番隊組長となり、数多くの新選組の作戦に参加、多くの功績を上げたということになります。その一方、性格は人懐こく、子供好きで、屯所にいる時はよく隊士たちに冗談を言って笑わせていたようです。本人を描いた肖像画すら残っておらず、どのような風貌であったのか、はっきりしていません。
顔も分からず、生年すらはっきりしない沖田総司。その愛刀さえもこの世に残さず、歴史から消え去りました。しかし、彼の名とその謎に包まれた生涯は、今もそして今後も私たちの心を魅了し続けることでしょう。
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