【明智光秀は医学に通じていた!】越前・一乗谷に残る光秀のあしあと 後編

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※前編の記事はこちら

2020年の大河ドラマ「麒麟がくる」主人公、明智光秀の前半生の足取りを追うため、福井県福井市にやってきた。前回は称念寺、明智神社を訪ねたが、つづいて足を運んだのが「特別史跡一乗谷朝倉氏遺跡」。戦国大名・朝倉氏が拠点としていた山城および居館などの城下町の跡地だ。

一乗谷朝倉氏遺跡に、光秀の足跡はあるのか?

2020年1月4日にNHKで放送された『あなたも絶対行きたくなる!日本最強の城 明智光秀スペシャル』で、安土城・岐阜城・岩村城・福知山城などをおさえて一乗谷城が「絶対行きたくなる城!NO.1」に輝いた。ますます、注目を集めている城と遺跡である。

全盛期は「都のけしき(景色)たちも をよばじ(及ばじ)」とうたわれ、日本有数の城下町として栄えた一乗谷。しかし、当時の建物は何もない。天正元年(1573年)、朝倉氏は織田信長に攻め滅ぼされ、一乗谷の建物も焼かれて灰燼に帰したからだ。

朝倉館の正門跡に建つ唐門

朝倉館の跡地正面に建つ唐門は、江戸時代の中ごろに寺の山門として建立されたものと伝わるが、この門だけが当主の館(朝倉館)の面影を宿す建物といっていい。17棟の建造物の名残りは、その礎石や井戸、庭園の跡だけ。それでも、この敷地に立つと、朝倉氏往年の栄華に想いを馳せずにはいられない。

朝倉義景の墓所

館跡の一角に、最後の当主・朝倉義景の墓がある。織田軍の猛攻にさらされた義景は、最後はここに立て籠もることも叶わず大野郡に逃れる。しかし、従弟の朝倉景鏡(かげあきら)の裏切りで自刃を余儀なくされた。没した3年後、ここに村民が小さな祠を建てて彼を供養したという。

諏訪館の庭園跡。案内役/福井県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館・学芸員の石川美咲さん

『朝倉始末記』に「昼夜宴をなし、横笛、太鼓、舞を業とし永夜を短しとす」とある。現在、特別名勝に指定されている4つの庭園跡が残されているが、義景はこの眺めを見ながら宴に興じたのだろうか。まさに「つわものどもが夢の跡」だ。

足利義昭(室町幕府15代将軍)が滞在した御所・安養寺の跡

一乗谷には、義景がかくまった足利義昭の滞在所であった御所・安養寺の跡も残る。兄・足利義輝(13代将軍)を殺されて流浪の身であった義昭は永禄8年(1565年)から3年間、近江・若狭・越前に滞在して上洛の機をうかがった。朝倉義景は義昭を手厚く歓待するとともに、義昭の元服の儀を執り行った。

しかし、義昭の期待とは裏腹に義景は上洛戦に打って出られず、失望した義昭は美濃へ去った。織田信長を頼るためである。

将軍家の「足軽衆」として、表舞台に姿をあらわす光秀

・・・と、ここまでは光秀がまったく登場しないのだが、このときに信長と義昭のパイプ役となったのが光秀とされ、ここから彼が歴史の表舞台にどんどん出てくる(『明智軍記』など)。一次史料としては『永禄六年諸役人附』(足利義輝・義昭に仕えた役人たちの名簿)のなかに「足軽衆」の一員として「明智」の名があり、これが光秀のことを指すとみられる。

朝倉館跡庭園を見おろす高台からの眺め

つまり、光秀は義昭に従ってそばにいた、または義昭の滞在所と、義景がいた朝倉館とのあいだを往来していた可能性もある。大勢の人々で賑わう一乗谷のまちを闊歩する、光秀の姿が浮かび上がってきたような気がした。

福井県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館

越前の寺に10年間も住んでいた?

続いて、同じく一乗谷の入口にある「福井県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館」を訪ねた。ここで学芸員の石川美咲さんにお会いできた。2019年の春、同館で石川さんが企画した特別公開展「明智光秀と戦国越前~光秀、一乗に来たる~」が開催され、それが大好評だったとか。

学芸員の石川美咲さん

光秀を中心とする展示は、同館では初の試みだったが「3ヵ月で約2万人もの方にご来場いただきました。当館では珍しい数字です(笑)」とふりかえる石川さん。ここからも光秀人気と、その注目度の高さがわかる。

光秀は、確かに越前にいた――それを示す特別展で、その根拠として注目を集めたのが相模・遊行寺の31代住職・同念上人が記した『遊行三十一祖 京畿御修行記』(鎌倉市の別願寺所蔵)の一部を写したパネル展示だ。同念上人の使者の僧が、光秀のもとに派遣された際の話が記されている。そこに「(光秀は)もともと濃州土岐一家の牢人で、越前国の朝倉義景を頼り……」とあるのだ。

「さらには『長崎(越前)称念寺門前に十ヶ年居住』という記述まであります。つまり光秀が美濃・土岐一族出身の浪人であったこと、朝倉義景を頼って越前に来て、称念寺(福井県坂井市丸岡町)の門前に10年間住んだことを示しています。ホントに光秀は越前にいたんです!」と、石川さんが眼を輝かせながら説明してくれた。光秀の出自である土岐氏と朝倉氏は、たびたび姻戚関係を結ぶなど蜜月関係にあった。その伝手などから朝倉氏を頼ったと石川さんはみている。

一方で「その10年がいつからいつまでなのか、光秀が義景を頼ったようではあるけど『仕えた』とは書いていないんです。具体的な動向もわからないので、それが光秀にとってどんな10年間だったのか、いまひとつはっきりしないのです……」と、残念顔。

だが、光秀と越前をむすびつける史料が、もうひとつある。それが2014年に熊本県で新たに発見された『針薬方』(しんやくほう)という医学書。そこに「明智十兵衛(光秀)」の名が見つかったことは、ネットニュースにもなったのでご存じの方もいるかもしれない。それによれば、光秀は、近江(滋賀県)の田中城に立てこもったおり、味方に「セイソ散」という傷薬の製法を伝えたと記されているのだ。

医学と光秀を結びつける医学書、発見!

この書は、足利将軍家に仕えた沼田勘解由左衛門尉(ぬまたかげゆざえもんのじょう)が、あるときに光秀から聞いた内容を書き写し、それをさらに米田貞能(さだよし)が、永禄9年(1566年)10月に近江坂本で書き写したもの。貞能はのちに肥後細川家の家老となった。書の奥書には「明智十兵衛(光秀)が近江国高嶋郡の田中城(滋賀県高島市)に籠城したときの医薬の秘伝をまとめたもの」と、確かに記載されている。

「私が医学書『針薬方』を見たのは2018年の熊本県立美術館の展示会『細川ガラシャ展』でした。そこに、セイソ散が『越州朝倉家之薬』、つまり朝倉家の傷薬であると書いてあることに気付いたときは『落ち着け、自分!』と、思わず眼を疑いました。光秀が朝倉家の秘薬を知っていたという、朝倉家との直接的な接点を裏付ける、とんでもない医学書です」

『湯液本草』の紙片。焼けた紙片ながら文字が読める

なるほど、素晴らしい。石川さんの説明から、当時の興奮ぶりが伝わってくる。ただ『針薬方』は一乗谷で見つかったわけではなく、熊本に伝えられた史料なので、ここには展示されていない。その代わり、一乗谷の朝倉氏遺跡には医師の屋敷跡とみられる遺構があり、そこからは『湯液本草』(とうえきほんぞう)という医学書が焼け残った紙片が見つかっている。

薬研、銅匙など

また、そのほかにも薬材をすりつぶす道具である薬研(やげん)、薬を扱ったと思われる銅匙(どうさじ)など医薬に関連した遺物が、一乗谷からはいくつも見つかっている。ここで「セイソ散」などの薬剤が製造されていた、まぎれもない証拠といえよう。

将棋の駒、茶道具の茶筅など生活の痕跡を示す遺物も多く興味深い

「一乗谷では医学書の伝授が行われていたことも明らかになっています。越前に長く滞在していた光秀が、ここに来て医薬に関する知識を得たとしてもおかしくないと思います」と、石川さんは語る。

光秀には医学の心得があった――。一般的に、明智光秀は武辺者ではなく知略を備えた知将といわれている。軍略や政治に長けていたのはもちろん、そこに「医学」という一面が備わっていたとなれば、これまでのイメージから一歩進んだ、新たな光秀像が生まれてきそうな気がする。確かに当時の名将ともなれば、傷病者への対処方もある程度は知っていたほうが良かったに違いない。

そういえば、2020年の大河ドラマ『麒麟がくる』には、望月東庵(とうあん)という医者や、その助手である駒(こま)という女性が登場する。彼らは架空の人物ながら、光秀と深く関わるようである。脚本のなかに「医者」と「光秀」との関わりが加えられているのは、まぎれもなく『針薬方』および、越前朝倉氏とのつながりを根拠にしたものとみて間違いなさそうだ。大河ドラマが、ますます楽しみになってきた。

文・上永哲矢

 

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