秀吉の後継者になるはずだった男・豊臣秀次
豊臣秀吉の甥として永禄11(1568)年に生まれた豊臣秀次。
幼少時から叔父・秀吉の戦略の駒となって、戦国武将の宮部継潤や三好康長の養子となり、名前も宮部吉継、三好信吉と改名しています。
後に養子先から戻ると羽柴姓を名乗り、秀吉の下で戦の経験を積みます。
そして秀吉が関白に就任した前後に羽柴秀次と改名し、後に豊臣姓を授かりました。やがて秀吉の後継として関白となります。
天下人の後継ぎとして、秀次の将来はバラ色でした。この時までは・・・。
謀反の疑いをかけられ、そして
しかし、文禄2(1593)年に秀吉の実子・秀頼が生まれると、雲行きが怪しくなります。
秀吉は秀頼を溺愛し、傍から見ても後継者は秀頼になるのではないかと思うほどでした。秀次にも焦燥感はあったはずですが、表面上は秀吉や淀殿と上手くやっていました。その一方で、彼は喘息の湯治に行くなど体調面に不安を抱えていたようです。
そんなところに、文禄4(1595)年に突然持ち上がったのが秀次の謀反説でした。
秀次は秀吉に弁明し誓紙を提出します。そして秀吉の要請に応じて伏見城に参上しますが、登城すら許されず、城下の屋敷に留め置かれ、高野山へ行くように命じられたのでした。
そしてわずかな供を連れ、高野山へ入り出家した秀次にもたらされた最後の命は、「死を賜る」というものでした。
秀次の切腹後、秀吉による粛清は彼の妻子と家臣にまで及び、ほとんどが処刑されました。遺体は一ヶ所に埋葬され、そこに建てられた塚は「畜生塚」とされました。
それだけでなく、秀吉は秀次たちが住んでいた聚楽第を完全に壊してしまったのです。そのやり方は常軌を逸していました。
殺生関白か、悲劇のプリンスか
大河ドラマ「真田丸」で秀次を演じているのは新納慎也さんです。
お坊ちゃんぽい感じは、2代目と目された人物に特有の大らかさなのかなと思います。
しかし実は、秀次を「殺生関白」と呼ぶ説が巷に流布しているのをご存知でしょうか。
織田信長の史料として価値の高い「信長公記」を著した太田牛一の筆による「大かうさまくんきのうち」は太閤記の元となる書物ですが、ここに秀次がそう呼ばれるようになったきっかけが記されています。
正親町天皇崩御後、喪が明けないうちに秀次が鹿狩りをしたそうで、これが不道徳だと京の人たちが狂歌を街角に張り出したといいます。
そこに書かれた「せつせう関白」が「摂政関白」、転じて「殺生関白」となったそう。
また、太田牛一の「天正記」には、秀次が農民を鉄砲で撃ち殺したり、辻斬りをしたりしたという記述があります。
これは殺生関白から人殺しに話が膨んでしまったのではないかとも思われるのです。
しかし、ポルトガル人宣教師・フロイスが秀次を「優れた才能があり、賢明な人物」と評した一方、血を見ると興奮し、死刑囚を切り刻むなど「人を殺すを嗜む野蛮の醜行」をしたと言っていたという話も伝わっています。
これが本当の秀次なのでしょうか?
殺生関白は太田牛一の記述にしか登場せず、これ以降に秀次が狂気の沙汰を行ったという記述が増えたようです。
秀吉は秀次の痕跡を消すかのように、一族も住居も破壊しました。もしかすると、秀次のこうした話は秀吉におもねる一派から出てきたのかもしれませんね。
秀次は領地で善政を布いていたといい、戦の様子からもとても愚かとは思えません。
秀吉が秀次を死に追いやったのは、正気だったのか狂気だったのか・・・そこが歴史の闇でもあります。
秀吉の粛清を逃れた娘の一人は真田信繁の側室となり、秀次の血脈はまだ続きます。
秀吉の血が秀頼で途絶えたのとは対照的で、そこに一筋の救いの光があるようにも感じられるのです。
(xiao)
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