幕末の土佐藩は多くの歴史的人物を排出しています。そのうちの1人が、尊王攘夷思想を掲げて土佐勤王党を結成した武市半平太(たけちはんぺいた)です。彼は同じく土佐藩出身で幕末維新の立役者となった坂本龍馬と、幼少期を似通った環境で過ごしていました。しかし、異なる思想を持つようになった2人はやがて違う道を歩み、最期は共に志半ばで倒れてしまいます。果たして、2人の間にどのようなドラマと葛藤があったのでしょうか。今回は、武市半平太と坂本龍馬の関係性とそれぞれの思想、最期についてご紹介していきます。
武市半平太と坂本龍馬の仲とは
半平太と龍馬は現在の高知県(江戸末期は土佐)の生まれです。2人は土佐藩の同じ道場で剣術を習う幼なじみの関係でした。遠縁に当たるともいわれ、幼い時は親しい関係だったようです。坂本家は質屋、酒造業、呉服商を営む豪商・才谷屋の分家で、武市家も地主で裕福な家柄でした。2人とも、お金に困ることのない恵まれた環境で育っています。
しかし、土佐藩では侍の身分が「上士」と「下士」に分けられており、下士である2人は、上士たちとは身分上の大きな隔たりがありました。下士の身分だった半平太と龍馬は、幼い頃から上士たちによって虐げられた生活を送っていたのです。そうした状況に不満を持っていた2人は、いずれその身分制度を撤廃したいという思いを持つようになります。
2人の思想の違いについて
半平太と龍馬は様々な経験を経て、その思想を変化させていきます。同じ土佐に生まれ育った2人でしたが、その思想の違いからやがて別々の道を進んでいくことになりました。
攘夷にこだわった半平太
「尊王攘夷」は、天皇や朝廷を重んじ、外敵(外国)を排除するべきだという思想。その思想を半平太は強く意識します。長州藩、薩摩藩など力を持った各藩の人たちが次々と「勤王の志士」として攘夷運動を行う党を結成する中、半平太も土佐勤王党という攘夷組織を結成。その党には後に「人斬り以蔵」と呼ばれる岡田以蔵や、初期には龍馬も参加していました。半平太は長州藩の久坂玄瑞に傾倒し、久坂の師である吉田松陰の思想に共鳴したとされています。そんな土佐勤王党が起こした事件が、吉田東洋(よしだとうよう)暗殺事件です。吉田東洋は土佐前藩主・山内容堂(やまうちようどう)の右腕として藩政の実権を握っていた人物。土佐勤王党が吉田東洋を暗殺すると、藩論は一気に攘夷派へと変化しました。
攘夷から開国へ向かった龍馬
結成初期には土佐勤王党に参加した龍馬。しかし、勤王義挙に参加するため、先に脱藩した吉村虎太郎や沢村惣之丞たちに誘われ、土佐藩から脱藩します。この脱藩が龍馬の生涯に大きな影響を及ぼしたといってもいいでしょう。脱藩した龍馬は、文久2年(1862)8月から江戸に寄宿。江戸で松平春嶽や勝海舟と交流します。龍馬は海舟と出会い、弟子になったことで更に交流を深め、海舟の持つ「開国思想」へとその思想を変化させていきました。
半平太と龍馬それぞれの道
土佐勤王党の党首として、京都で尊王攘夷活動を行なっていた半平太。開国して軍艦を作る技術を学び、異国と対等に話ができる武力を持つことを考えた龍馬。それぞれ違う道を歩んでいく2人にどのような未来があったのでしょうか。
半平太の土佐勤王党志士としての最期
文久3年(1863)「八月十八日の政変」を契機に、土佐勤王党は急速に権力を衰退させ、前藩主である山内容堂が土佐藩の主導権を握ります。容堂は公武合体派の思想を持つ人物で、吉田東洋暗殺を行なった土佐勤王党を弾圧しました。この弾圧により、半平太も投獄され、獄中での生活を余儀なくされます。岡田以蔵が元治元年(1864)に捕まり拷問され、罪を自白したことで、土佐勤王党の党員は続々と窮地に立たされました。斬首、永牢など厳しい裁きがくだされる中、盟主である半平太は、切腹を命じられます。慶応元年(1865)5月11日、攘夷を成し遂げられなかった無念を抱えながら、半平太は腹を横に3回斬る「三文字」の切腹をしました。その様子に、介錯した上士らも、半平太への尊敬の念を抱かずにはいられなかったと伝えられています。
謎に包まれている龍馬の最期
幕末史に残る偉業を成し遂げた龍馬でしたが、一方で彼を危険人物とみなし暗殺を企てる者も多かったようです。龍馬は、京都で拠点とした醤油店・近江屋で、同志である中岡慎太郎と共に暗殺されました。暗殺を行ったのは、幕府方である京都見廻組の今井信郎らと判明していますが、いくつかの問題点があり、そのため犯人はほかにいるのではないかとも考えられています。
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志半ばで倒れた二人
同じ土佐の下士として生まれた半平太と龍馬。やがて別々の道を歩んでいくことになった2人でしたが、ともに志半ばでこの世を去ることになりました。それぞれの思想や方法は違ったものの、世の中を変えようと自らの命を懸けた半平太と龍馬は、激動の幕末にその名を刻んだのです。
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