【春日局】徳川家光を3代将軍に導いた女性の波瀾万丈の人生と逸話

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【春日局】徳川家光を3代将軍に導いた女性の波瀾万丈の人生と逸話

江戸幕府3代将軍・徳川家光の乳母となった春日局(かすがのつぼね)。彼女は夫の没落から一転、徳川将軍家に入り絶大な発言権を得るなど波瀾万丈な人生を歩みました。将軍継嗣問題に介入したことから、家光を将軍に導いた人物ともいえるでしょう。江戸時代初期に活躍した春日局はどのような女性だったのでしょうか?

今回は、春日局が稲葉正成と結婚するまで、家光の乳母としての活躍、春日局の残した功績、家光との逸話などについてご紹介します。

稲葉正成と結婚するまで

もともとは武家の姫だった春日局。まずは、彼女のうまれから稲葉正成と結婚するまでについて振り返ります。

出自は美濃国守護代の斎藤氏

「春日局」とは朝廷から賜った称号で、本名は斎藤福(さいとうふく)といいます。福は天正7年(1579)にうまれました。父は代々美濃国守護代を務める武家の名門の一族である斎藤利三、母は稲葉一鉄の娘・安です。守護代斎藤氏が滅びると、一門の斎藤家は縁戚関係にある明智氏に仕官。利三は明智光秀のもとで手腕を発揮し、福知山城近郊の要衝だった丹波・黒井城の城主に任命され、筆頭家老にも就任しました。福は黒井城の平常時の住居である下館(現在の興禅寺)でうまれたとされ、城主の姫として幼少期をすごしたようです。

稲葉家に引き取られる

神奈川県立歴史博物館所蔵の稲葉正成の肖像です。

その後、主君・光秀により君主である織田信長が討たれるという本能寺の変が勃発します。利三は光秀への恩義もあり、首謀者の一人としてこのクーデターに加担しました。しかし、山崎の戦いで羽柴秀吉に敗れ、帰城後に坂本城下の近江国堅田で捕らわれ処刑。福の兄弟も落ち武者となって各地を流浪したと考えられています。

父を亡くした福は母方の実家・稲葉家に引き取られ、母方の親戚である三条西公国(さんじょうにしきんこく)の養育により書道・歌道・香道などの教養を身につけました。後に伯父・稲葉重通の養女になると、小早川秀秋の家臣・稲葉正成の後妻となります。夫の正成は慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いにおいて、主君・秀秋に対し東軍に寝返るよう説得。これにより徳川家康率いる東軍に勝利をもたらした功労者となりました。

家光の乳母としての活躍

稲葉家の一員になった福ですが、その後、彼女の人生は激変します。福は徳川将軍家に入り、家光の乳母として活躍するのです。

夫と離婚し、将軍家の乳母に

関ヶ原の戦いの2年後、主君・秀秋が早世し、世継ぎがいなかったことから小早川家は改易(任を解かれるなどの刑罰)となりました。これにより夫は浪人へと転落。福は夫とともに美濃で半農生活を送ることになります。そんな中、慶長8年(1603)に江戸幕府が開府し、家康の嫡孫・竹千代(のちの徳川家光)の乳母募集のお触れが出されました。福はこれに応募し、公家の文化や教養があったことから見事乳母に選ばれます。この選定には、夫・正成を通して福に面識があった家康が関与していたという説もあるようです。こうして徳川将軍家の一員になることが決まった福は、正成と離婚する形をとりました。

徳川秀忠・江夫妻との主導権争い

大信寺所蔵の徳川忠長の肖像です。

家光は将来的に将軍になることを期待されていましたが、慶長11年(1606)に2代将軍・徳川秀忠と妻・お江のあいだに第2子の次男・国松(徳川忠長)が誕生すると、雲行きは怪しくなりました。というのも、秀忠夫婦は家光より国松を可愛がるようになったのです。理由は諸説あるものの、幼少期の家光が病弱だったため将軍にふさわしくないと考えたからだといわれています。この状況に絶望した家光は自殺未遂まで起こしており、事態を重く見た福は駿府城で隠居中だった家康を訪問して直訴。一説には、この働きかけにより家光が3代将軍に決まったとされ、福は乳母としての地位を固めました。

春日局の残した功績

その後、福は「春日局」を下賜され歴史に名を刻みます。彼女はさまざまな功績を残してこの世を去りました。

将軍様御局として大奥を仕切る

元和9年(1623)に家光が将軍に就任すると、福は将軍様御局としてお江のもとで大奥の公務を取り仕切りました。お江の没後は家光の側室探しや大奥の整備に尽力し、老中を上回る実質的な権力を握ったといわれています。寛永6年(1629)には伊勢神宮に参拝して上洛し、公家・三条西家の力を借り「春日局」の号を賜りました。

なお、将軍になれなかった弟・忠長は、お江の没後に奇行をはたらくようになり、父・秀忠に領地を召し上げられ蟄居を命じられます。この頃から体調を崩した秀忠は寛永9年(1632)に死去。その後、忠長も家光の命により自害することとなりました。

多くの人を出世に導く

春日局は縁故のある人々を出世させたことでも知られています。彼女が家光の乳母になってから、かつての夫は2万石の大名として復帰し、二人のあいだに生まれた稲葉正勝は相模小田原藩8万5000石の大名へと出世。また、兄の斎藤利宗は家光の旗本となり5000石を領有するなど、彼女が援助した者はほとんど出世しました。

64歳でこの世を去る

東京都文京区・麟祥院にある春日局の墓所

家光の乳母として発言力を高め、大奥を取り仕切るなど活躍した春日局ですが、寛永20年(1643)に64歳でこの世を去りました。辞世の句「西に入る 月を誘い 法を得て 今日ぞ 火宅を のがれけるかな」(訳:西の方へ没していく美しい月を心にとどめ、仏の教えに従って、今日こそ煩悩の多いこの世から逃れることができます)からは、波瀾万丈な人生をおくった彼女の思いが伝わってきます。墓所は、東京都文京区の麟祥院、神奈川県小田原市の紹太寺、京都市の金戒光明寺にあります。

春日局と家光にまつわる逸話

家光のために奔走した春日局。ここでは、春日局と家光に関するエピソードをご紹介します。

「七食飯」で食生活を改善!

幼いころの家光は虚弱体質で食も細かったため、春日局は「お命をつなぐものの第一は飯なり」として「七色飯」を考案しました。これは、7つの飯を用意し好きなものを選んでもらうというもので、「菜飯」「小豆飯」「麦飯」「粟飯」などが用意されました。これにより家光は食生活が改善され、健康を取り戻したといわれています。

世継ぎのために「大奥」を作った

家光は男色家としても知られており、30歳を過ぎても世継ぎがうまれませんでした。危機感を抱いた春日局は家光の側室探しに奔走。彼女の努力の甲斐もあり、やっと成果が出て長男・家綱が誕生します。このとき春日局が家光好みの美女を集めたことが日本の「大奥」の始まりです。春日局は江戸城大奥の基礎を築いた人物でもありました。

2人の絆を示す「稲葉天目」

寛永6年(1629)に家光が天然痘を患った際、春日局は「生涯薬を飲まない」という誓いを立て、伊勢神宮で家光の平癒を祈願しました。寛永20年(1643)、病に倒れた春日局はかつての誓いを守って薬を飲もうとしなかったため、家光は「稲葉天目(いなばてんもく)」という茶碗と薬を贈り、自ら飲ませたという逸話が残されています。

将軍の乳母として権勢をふるった

美濃国守護代の一族にうまれるも、一度は没落した春日局。しかし、彼女は家光の乳母として徳川将軍家の一員となり、その後も家光のために奔走しました。大奥を取り仕切った彼女は、老中にも劣らない権力を手にいれ、徳川幕府の基礎固めに寄与したため、政治家として評価されることもあるようです。3代将軍となった家光は、参勤交代など後世に続く仕組みを作ったことから、彼女の残した功績は大きいといえるでしょう。

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