世界に誇る日本の技術の結晶・日本刀。ほとんどは専門の職人によって作られましたが、中には高い身分にありながらも作刀を行う人もいました。
そうした人々によって作られた刀を「慰打ち(なぐさみうち)」と呼びます。現在にも少なからず残る慰打ちと、慰打ちを行なった著名人をご紹介します。
日本で初めて慰打ちを行なったのは、神剣が失われた時代の天皇
初めて慰打ちを作ったと言われているのが、平安時代末期から鎌倉時代初期に生きた後鳥羽上皇です。
後鳥羽上皇は御番鍛冶と呼ばれる優秀な刀工に補佐をさせて、自ら作刀しました。
後鳥羽上皇の作った刀には銘は入れられていませんが、16弁の菊文が彫られました。そのため「菊御作(きくのみつくり)」と呼ばれています。ちなみに、後鳥羽上皇が愛用したことから天皇家の菊紋は始まったそうですよ。
後鳥羽上皇が天皇に即位したのは、源平合戦の真っ最中だった元暦元年(1184年)。三種の神器なしの即位であり、その一つである草薙の剣は壇ノ浦に沈んだまま戻って来ませんでした。そんな後鳥羽上皇が作刀に熱心だったのは、なんとなく因果を感じますね。
後鳥羽上皇によって作られた刀は、公家や北面の武士など院中警護の武士へ送られました。これによって上皇との結びつきを堅固なものにして鎌倉幕府に対抗しようとしたと考えられています。
承久の乱で敗北して隠岐島に流されてしまいますが作刀は続けていたようで、「鍛冶屋敷」と呼ばれた場所が残されているとのことです。
現物を見るチャンスもあり?!水戸徳川家に残された慰打ち
後鳥羽上皇の菊御作を参考にしたと考えられているのが、幕末は水戸の藩主・徳川斉昭。やはり水戸の名だたる刀工に補佐を務めさせながら多くの刀を作りました。
斉昭が作った刀には16弁に3本の線を加えた葵文が掘られており、このため「葵くずし」と呼ばれています。
斉昭は22人の息子と15人の娘がいましたが、養子や嫁として他家に渡ると、相手の家に「葵くずし」を贈っています。これも後鳥羽上皇と同じく、結びつきを強めようとしたのかもしれません。
「葵くずし」は、水戸徳川家に伝わる名宝を展示している徳川ミュージアムや、茨城県立博物館などで見るチャンスがあるようです。興味がある方はぜひチェックしてみてください。
慰打ちを行なっていた“お偉いさん”は他にも数多くいるようです。
地元の英雄や好きな偉人が、実は刀も作っていたなんてことがあるかもしれませんよ。
(Sati)
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