【西南戦争で熊本城を死守!】坂本龍馬暗殺犯を追った男・谷干城

未分類
【西南戦争で熊本城を死守!】坂本龍馬暗殺犯を追った男・谷干城

薩摩といえば、戦国時代では九州で数々の戦に勝ち抜き、幕末でも武芸盛んな藩として恐れられました。その旧薩摩藩士たちから西南戦争時に熊本城を守り抜いた名司令官、その人物が土佐藩出身の谷干城(たにたてき)です。

今回は、幕末から明治にかけて軍人・政治家として名を残した谷干城について、戊辰戦争・西南戦争での活躍や坂本龍馬との関係性を解説します。

尊王攘夷から倒幕へ!戊辰戦争で活躍した谷干城

幕末期の谷干城
土佐藩時代の谷干城です。

谷干城の名前が歴史に登場するのは、幕末の時期からになります。谷の思想の変遷と戊辰戦争での活躍についてみていきましょう。

尊皇攘夷の思想に傾倒

谷は現在の高知県の土佐国高岡郡の窪川で生まれました。成長してから江戸に出て、安井息軒(やすいそっけん)、安積艮斎(あさかごんさい)、若山勿堂(わかやまぶつどう)らの高名な学者から学びます。彼らは幕末・明治期に活躍した多くの人材を教えた一流の学者でした。

勉強を終えて土佐に戻った谷は、土佐勤王党の首領として有名な武市半平太と出会います。武市の影響を受けた谷は尊王攘夷(天皇を尊び、異国を排斥しようという思想)に傾倒していきました。やがて武市と共に藩主の山内豊範に引き立てられ、攘夷実現に向けて尽力しますが、武市が失脚すると同志である谷も左遷され1年ほど逼塞(ひっそく)を余儀なくされました。

坂本龍馬らと出会い、倒幕の思想へ

長崎の港
現在の長崎の港。江戸時代にはこの地で貿易が盛んに行われていました。

復帰後も谷は攘夷の思想を捨てきれないまま、外国との交易の中心地だった長崎を視察します。当時の長崎は多くの欧米の商人が押し寄せ、最新鋭の武器や軍艦などを売買するための中心地として、注目を集めていました。谷はこの地で、次第に西洋に対する自身の考えを変化させていきます。

この頃、谷は坂本龍馬や藩の重役である後藤象二郎と出会い、攘夷は不可能であることを説明されます。当時の龍馬は薩長同盟を仲介し、幕府の長州征伐阻止に貢献するなど、当時の日本の政局で最も重要な人物。外交能力が低く日本を代表する力を失いつつある幕府を倒し、天皇中心の新政権を打ち立てることが、日本にとって最善の道という考えを龍馬は持っていました。

龍馬や後藤と出会い、この考え方を知ってから上海に渡った谷は、西洋の軍事力を痛感し、龍馬や後藤の説明に納得がいくのです。こうして帰国後、一転してその思想を開国・倒幕へと改めました。

倒幕を目指し、戊辰戦争で活躍!

迅衝隊
中列で襟巻きをして刀を持っているのが谷。前列中央の乾が率いていた迅衝隊です。

土佐藩の倒幕派の中心勢力となった谷は、同藩の乾退助(後の板垣退助)、毛利恭介らとともに当時の倒幕派の最大勢力だった薩摩藩と「薩土密約」という軍事同盟を結びます。これは、幕府との戦争が始まったら藩論がどのような状況であろうと土佐藩兵を率いて薩摩藩に合流するというものでした。やがて始まった戊辰戦争では、乾が率いる迅衝隊に所属し、小軍監(後に大軍監)として北関東・会津戦線で活躍。新政府軍の勝利に貢献しました。

坂本龍馬を尊敬していた谷の行動とは?

戊辰戦争の直前、土佐藩の倒幕派の指導者的人物だった龍馬が京都の近江屋で暗殺されてしまいます。犯人は新選組とも見廻組ともされてきましたが、自分を倒幕思想に導いてくれた龍馬を殺された谷は、犯人を懸命に追い続けました。

生涯をかけて暗殺犯を追っていた

中岡慎太郎
龍馬と共に暗殺された中岡慎太郎。

慶応3年(1867)11月15日、近江屋で龍馬と中岡慎太郎の暗殺事件が起こったと知った谷は、すぐに現場に駆けつけます。しかし、龍馬はすでに事切れたあとでした。谷は事件後数日間生き残った中岡から、事件や犯人に関する情報を聞き出します。そして、さまざまな情報を考察した結果、新選組が犯人ではないかと考えるようになりました。その後も彼は生涯をかけて龍馬の暗殺犯を追いかけます。

近藤勇の斬首に関係していた

戊辰戦争で勝ち進んだ政府軍は、新選組局長であり旧幕府軍の近藤勇を捕らえました。近藤の処遇については政府軍内で意見が分かれますが、新選組が龍馬の仇と信じる谷は近藤の処刑を徹底的に主張します。結果的に谷の主張が反映される形で、近藤は斬首された上に、首をさらされる獄門という酷刑に処せられました。

関連記事:斬首された新選組局長・近藤勇!その波乱の最期とは?

今井信郎を激しく非難!

明治33年(1900)、京都見廻組の一人だった今井信郎が龍馬殺しの犯人に名乗りを上げます。しかし、龍馬の剣の腕を知っており、新選組を犯人と考えていた谷は「お前ごとき売名の徒に坂本さんが斬られるものか」と激しく非難しました。龍馬が暗殺された年から30年以上経っても、谷が近江屋事件の犯人について考えていたことが分かります。

関連記事:【歴史作家・山村竜也の「 風雲!幕末維新伝 」】第1回「坂本龍馬暗殺の犯人はこの男だ!」

西南戦争で熊本城を死守!

熊本城
谷が死守した熊本城。

明治維新からおよそ10年の年月が経ち、日本最後の内戦、西南戦争が勃発します。谷は、当時影響力の強かった西郷隆盛に取り込まれず対抗できる人物と見込まれ、熊本鎮台司令官として最前線の熊本城に派遣されていました。谷はまだ若い新政府を守るため、薩摩軍と籠城戦を繰り広げます。

薩摩軍との激しい闘い

谷は明治5年(1872)に陸軍少将として熊本鎮台司令長官となりました。その後、神風連の乱の後も再び熊本鎮台司令官に任命されます。これは、当時「明治六年の政変」で政府を去っていた西郷隆盛が鹿児島を拠点にしていることが関係しています。当時の西郷は多くの薩摩藩士に慕われていたことからも分かる通り、非常に影響力がある人物として知られていました。明治政府は武力的にも西郷に対抗でき、かつ西郷の魅力に取り込まれない人物として谷を抜擢したのでした。

西南戦争勃発時、西郷率いる鹿児島の私学校の生徒たちは武装蜂起を決め、新政府を叩くために北上します。そこで最初にぶつかるのが熊本鎮台でした。熊本鎮台を率いる谷は、戦国の昔から幕末に至るまで武勇では日本最強の一角に数えられる薩摩軍と必死に戦います。谷は明治維新の主戦力として圧倒的な武力を持っていた薩摩軍を相手に52日間に渡って籠城し、熊本城を守り抜きました。このことが薩摩軍の北上を阻み、政府軍勝利の大きな礎となりました。

軍人から政治家へ

晩年の谷干城
谷は軍人から政治家に転身しました。この写真は晩年のものです。

戊辰戦争と西南戦争で優れた功績を残した谷干城。西南戦争後は学習院院長を経て、軍人から政治家に転身します。内閣で農商務大臣に就任し、条約改正に関する意見書を内閣に提出するなど政治面でも活躍しました。

関連記事:
【西南戦争と西郷隆盛】なぜ日本最後の内乱は起こったのか?
【高知ではなく京都?】坂本龍馬が中岡慎太郎とともに眠る墓

Visited 1 times, 1 visit(s) today
READ  【ペリーは首里城にも訪れていた!】琉球上陸に始まった黒船ショック

コメント

タイトルとURLをコピーしました