鎌倉時代を終焉に導き、室町幕府を創った足利尊氏。彼は御家人でありながらも幕府を裏切り、後醍醐天皇に呼応して地位を高めていきました。しかし、のちに後醍醐天皇と対立し、仲の良かった弟とも争うなど、過酷な道をたどっています。尊氏の一生とはどのようなものだったのでしょうか?
今回は、尊氏の御家人としての活躍、鎌倉幕府滅亡と後醍醐天皇との対立、室町幕府成立と尊氏の晩年などについてご紹介します。
鎌倉幕府の御家人として
室町時代前期(南北朝時代)に活躍した尊氏について、まずは生まれから元弘の乱までを振り返ります。
家督相続して足利家当主に
尊氏は、嘉元3年(1305)足利宗家7代当主・足利貞氏の次男として生まれました。母は側室・上杉清子で、確実な生誕地は不明です。15歳で元服した彼は、北条高時から名を賜り「高氏」と改名。また、従五位下に叙し治部大輔に任命されます。わずか15歳でこの地位を得たのは、ほかの御家人に比べ足利家が優遇されていたからのようです。元弘元年/元徳3年(1331)父・貞氏が死去。家督は兄・高義が継いでいましたが、父より先に兄が亡くなったため、尊氏が継承することになりました。
元弘の乱で名声を高める
元弘元年/元徳3年(1331)後醍醐天皇が2度目の倒幕を企み元弘の乱が勃発します。尊氏は鎌倉幕府の出兵要請に応じ、天皇の拠点・笠置と楠木正成の拠点・下赤坂城を攻撃。この戦いで勝利に貢献したことから尊氏の名声は高まりました。元弘の乱の失敗により、倒幕計画に関わった貴族や僧侶は厳罰に処され、後醍醐天皇も廃位されたのちに隠岐島に配流されます。皇位は持明院統の光厳天皇が受け継ぎ、尊氏は従五位上の位階を与えられました。
反旗を翻した尊氏
元弘の乱の鎮圧に貢献した尊氏でしたが、やがて幕府に反旗を翻します。さらには後醍醐天皇とも対立し、新たな道を進み始めました。
鎌倉幕府を滅亡に追い込む
元弘3年/正慶2年(1333)後醍醐天皇が隠岐から脱出し伯耆国船上山で籠城します。このとき尊氏は病中でしたが、西国の討幕勢力の鎮圧という幕命を受け、北条(名越)高家とともに司令官として上洛。しかし、高家が緒戦で戦死すると、後醍醐天皇の誘いを受けて天皇方につくことを決意します。尊氏は所領の丹波国で挙兵し反幕府勢力を集めて入洛すると、幕府の出先機関である六波羅探題を滅亡させました。同時期、関東では上野国の御家人・新田義貞が反乱を起こして鎌倉を制圧しており、これらの戦いにより鎌倉幕府は滅亡に追い込まれます。
建武の新政と中先代の乱
鎌倉幕府の滅亡後、後醍醐天皇による建武の新政が始まりました。尊氏は戦いの勲功から鎮守府将軍・左兵衛督に任命され、30か所の所領を与えられます。また、後醍醐天皇の名「尊治」から1字賜り、高氏から尊氏に改名。しかし、政権で要職につくことはなく、代わりに足利家の執事・高師直や家臣たちを多数送り込みました。そんな中、建武2年(1335)信濃国で高時の遺児・北条時行による中先代の乱が勃発します。北条家の残党を集めた反乱軍は鎌倉を一時占拠しますが、尊氏は後醍醐天皇の許可なく弟・足利直義と合流して鎌倉を奪還しました。
尊氏討伐の命令が下る
鎌倉を取り返した尊氏は、直義の意向もあり、上洛命令を拒んでそのまま鎌倉に留まります。そして、兵士らに独自に恩賞を与えるなど、新しい武家政権を作る動きを見せ始めました。これに対し、後醍醐天皇は義貞に尊氏討伐を命じ、奥州からも天皇の側近・北畠親房の子である北畠顕家が南下を始めます。尊氏は赦免を求めて隠居宣言しますが、足利方が劣勢になると後醍醐天皇に反旗を翻すことを決意。持明院統の光厳上皇にかけあい反乱の正統性を得ると、顕家・義貞・楠木正成らの攻勢を潜り抜けて京都を制圧しました。
新たな武家政権を宣言
洛中をほぼ制圧した尊氏は、比叡山に逃れていた後醍醐天皇と和睦します。その後、直義の強い意向もあり、政権の基本方針を示す「建武式目十七条」を定め、新たな武家政権の成立を宣言。こうして事実上の室町幕府が発足し、尊氏は源頼朝と同じ権大納言に任命されて「鎌倉殿」と自称しました。一方、後醍醐天皇は京を脱出し、吉野(奈良県吉野郡吉野町)へ逃れます。さらには、尊氏の北朝に対抗して南朝を樹立しました。
室町幕府の成立
尊氏によって幕開けした室町時代ですが、幕府の内部抗争や直義との対立など、争いは絶えませんでした。
二頭政治体制のはじまり
延元3年/暦応元年(1338)尊氏は光明天皇から征夷大将軍に任命され、名実ともに室町幕府が成立します。翌年、対立する南朝の後醍醐天皇が崩御。それでも対立は続きましたが、顕家、義貞、正成の遺児・楠木正行ら南朝方の有力武士が戦死し、正平3年/貞和4年(1348)には師直が吉野を攻略しました。
こうして始まった新政権では、二頭政治体制がとられます。尊氏は軍事指揮権・恩賞権を握って武士の棟梁として君臨し、政務は直義が任されました。
内部抗争・観応の擾乱が勃発
しかし、この二頭政治体制は権力を二分化させ、幕府内の派閥争いのキッカケとなってしまいます。幕府の実権を握る直義の派閥と、幕府執事である師直の派閥の争いは、やがて政権の内紛(観応の擾乱)へと発展。直義は師直を襲撃しようとするも反撃され、結果的に引退し出家しました。尊氏はこの内紛の際、中立的立場をとっていたとされる一方、直義にも師直にも良い顔をしていたという説もあるようです。その後、政務は尊氏の嫡男・義詮(よしあきら)が担当し、尊氏は東国統治のための鎌倉府を設置しました。尊氏はこの頃から自ら政治を行うようになり、義詮と共同統治をしていたようです。
弟・足利直義と対立する
直義引退後、直義の猶子・足利直冬が直義派として勢力を拡大し、尊氏は討伐に乗り出します。しかし、京都を脱し南朝に降伏した直義の力が強まり、尊氏方は敗北を喫しました。そこで尊氏は師直と高師泰の兄弟の出家・配流を条件に和睦します。直義も政務に復帰しますが、彼の政治は現状に対応するには守旧的だったことから再び引退。その後、尊氏は南朝と和睦し、直義追討の綸旨(天皇の意を示した文書)を得ました。鎌倉に逃れていた直義は捕らえられ、幽閉されたのちに急死します。
晩年まで戦い続けた尊氏
その後、尊氏が京を留守にしているあいだに南朝との和睦が破られます。南朝方から攻撃された尊氏は一旦退却するもすぐに反撃して鎌倉を奪還。しかし、畿内でも義詮が破られ、北朝の光厳・光明・崇光の三上皇と皇太子・直仁親王が拉致されてしまいます。こうして京の奪還と占拠は繰り返され、正平9年/文和3年(1354)の旧直義派による大攻撃では尊氏も京を放棄しますが、最終的には奪還に成功しました。晩年まで戦い続けた尊氏は、正平13年/延文3年(1358)背中の腫れ物が原因で死去。墓所は京都・等持院と鎌倉・長寿寺にあります。
時代によって評価が変化した武家の棟梁
鎌倉幕府を滅ぼし、後醍醐天皇との対立の末に室町幕府を築いた足利尊氏。彼は戦場で勇敢でしたが、気前が良く敵にも寛容な人物だったといわれています。江戸時代には歴史書や軍記物の影響により、正統な天皇(後醍醐天皇)を放逐した逆賊とされてきました。しかし、戦後の歴史教育の変化に伴いその評価は一変、現在では英雄として扱われるようになっています。尊氏のように時代によってその評価が変化するのも、歴史の面白いところですね。
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