戦国時代に名を馳せた織田信長には優秀な家臣がいました。のちに天下人となった豊臣秀吉、謀反をおこした明智光秀らが有名ですが、信長の妹・お市の方とともに自害した柴田勝家もその一人といえるでしょう。
勝家は信長以前から織田家に仕えていた重臣で、信長死後の清洲会議にも参加しています。織田家に尽くした勝家の人生とは、どのようなものだったのでしょうか?
今回は、勝家のうまれから信長に仕えるまでの経緯、信長家臣としての活躍、本能寺の変後の動きとその最期、勝家の人物像などについてご紹介します。
うまれから信長に仕えるまで
勝家はどのようにして信長に仕えるようになったのでしょうか?信長の父・信秀の時代を振り返ります。
織田信秀の家臣になる
生年には諸説ありますが、『張州府誌』によれば、大永2年(1522)尾張国愛知郡上社村(現在の愛知県名古屋市名東区)で誕生したとされています。土豪の出身で、柴田勝義の子と考えられているようです。
若いころから織田信秀の家臣として仕えていた勝家は、信長が家督継承する頃には織田家の重鎮でした。また天文20年(1551)に信秀が亡くなると、その後は子・織田信行(織田信勝)の家老として仕えるようになります。
織田信行を後継者にしようと画策するが…
信行に仕えていた勝家は、織田家の後継者に信行を推し、信長を排除しようと考えました。しかし、弘治2年(1556)8月に信長との戦いに敗れ降伏。信長たちの生母・土田御前のはたらきにより赦免され、それ以降は信長を認めるようになります。一方、信行との関係は悪化し、信行が謀反を企てた際は信長に密告しています。信行はその後、仮病を装った信長に呼び出され殺害されました。信行の遺児は、信長の命により勝家が養育したようです。
織田信長のもとでの活躍
勝家は信長の家臣となり手腕を発揮していきます。猛将といわれる勝家の活躍ぶりを振り返りましょう。
赦免され信長の重臣に
信行の死後、赦免された勝家は信長の家臣となりました。永禄8年(1565)夏ごろには信長の奉行の一人となっており、尾張国の寂光院宛の文書にその名前が残されています。ただし、信長に逆らった過去があることから、桶狭間の戦いや美濃斎藤氏攻めなど、家臣になってしばらくは合戦に参加できなかったようです。
織田軍の先鋒として武功を挙げる
上洛作戦以降、勝家は織田軍の先鋒として武功を上げ、京都・畿内の行政を担当する五人のうちの一人になりました。その後、姉川の戦いや長島一向一揆の鎮圧、比叡山の焼き討ちなど、さまざまな戦いで活躍します。信長が将軍・足利義昭と対立した際は、義昭を降伏させることにも成功しました。信長包囲網が敷かれてからは、織田軍の有力武将として各地を転戦。天正元年(1573)の一乗谷城の戦い、天正3年(1575)の長篠の戦いにも参加しています。
北陸の軍司令官に任命され、加賀国を平定
朝倉氏の滅亡後、勝家は越前国八郡49万石と北ノ庄城を与えられます。また北陸方面の軍司令官に任命され、前田利家・佐々成政・不破光治といった与力とともに加賀国平定を一任されました。越後国の上杉謙信の加賀進出などに対応したのち、北加賀・越中境まで軍を進め、天正8年(1580)11月に加賀を平定。さらには能登国・越中国にも進出しました。
本能寺の変後、秀吉と対立
名実ともに織田家の筆頭家老となった勝家ですが、本能寺の変で主君を失います。信長死後の勝家はどのように動いたのでしょうか?
明智光秀を討とうとしていた勝家
天正10年(1582)6月2日、本能寺の変で信長が横死します。勝家は3月から越中国の魚津城・松倉城を攻囲しており、信長の死を知らぬまま6月3日に魚津城を落としました。事件を知った勝家は、6日の夜から全軍撤退し北ノ庄城へ帰還。その後、大坂にいた丹羽長秀と連携して光秀を討とうと企てます。
しかし、失地を回復しようとする越中・能登の国衆らを止めるために時間をとられ、ようやく18日に近江に出発したときには秀吉が「中国大返し」でいち早く弔い合戦を仕掛け、光秀を討っていたのです。
織田家の後継者問題で秀吉と対立
本能寺の変後、織田氏の後継者や遺領配分などについて話し合う清洲会議が開かれました。勝家は信長の三男・織田信孝を推しましたが、秀吉は信長の嫡孫・三法師(織田秀信)を擁立。二人は対立しましたが、信長の仇である光秀を討った秀吉の発言力は大きく、結果的に織田氏の家督は三法師が継承します。また遺領配分についても秀吉と立場が逆転し、この会議のあとは秀吉との権力抗争が始まりました。
勝家はこの会議で、信長の妹・お市の方との結婚について諸将の承諾を得ています。これは、秀吉が勝家の不満を抑えようとして斡旋したとも考えられているようです。
賤ヶ岳の戦いで妻・お市の方と自害
天正11年(1583)勝家と秀吉による賤ヶ岳の戦いが勃発します。勝家は義昭に対し、義昭を庇護している毛利氏とともに出兵するよう要請し、秀吉の背後を突こうとしました。しかし、この作戦はうまくいかず、高野山に対する同様の呼びかけも失敗に終わります。結果的に「美濃大返し」を敢行した秀吉に敗れ、勝家は北ノ庄城でお市の方とともに自害してこの世を去りました。
勝家の人物像とは?
織田家の重臣としてさまざまな活躍をした勝家ですが、その人物像とはどのようなものだったのでしょうか?
武勇に秀でていた
勝家には「鬼柴田」「かかれ柴田」といった異名があります。これは、勝家が武勇に優れ、戦場で随一の突進力を誇っていたことからつけられた呼び名です。最後は秀吉に敗れたものの、織田家の先鋒を務めるにふさわしい人物だったといえるでしょう。
温情ある人柄だった
ルイス・フロイスの『日本報告』によれば、賤ヶ岳の戦いの際、勝家は離反した家臣に恨み言を言わず、最後まで付き従った家臣たちには生き延びることを勧めたそうです。さらには、家臣たちに報いる術がないことを嘆いたともいわれています。前田家家臣・村井重頼の覚書にも似たような話が残されており、勝家が温かみのある人物だったことがうかがえます。また、妻のお市の方に逃げるよう勧めたエピソードも有名です。
織田家に捧げた生涯だった
勝家は織田家の重臣として信秀や信長に仕え、最後は信長の妹・お市の方とともに人生を終えました。若い頃から織田家に尽力してきた勝家ですが、秀吉と立場が逆転したことをキッカケに大きく人生が変わったといえるかもしれません。勝家が残した辞世の句は、お市の方の句に返句する形で詠まれています。最後まで織田家の人間と寄り添ったことを考えると、勝家はまさに織田家と生涯をともにしたといえるでしょう。
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